Nipponの表象

昭和戦前期・戦後期の写真・デザイン・映画をテーマに書いてます

プロバガンダ映画に描かれた「学校生活」(其の3)

プロパガンダ映画に描かれた「学校生活」(其の1) - Nipponの表象

プロパガンダ映画に描かれた「学校生活」(其の2) - Nipponの表象

国際文化振興会 × 自由学園 = 対外文化宣伝?

自由学園、と聞いてすぐにどんな学校なのかイメージが湧くでしょうか?東京には大学までエスカレーター式の私立学校がたくさんありますが、自由学園はその中でも特に個性的な学校です。

自由学園は、1921(大正10)年に、西池袋に女学校として創立されました。この時フランク・ロイド・ライトと遠藤新によって設計された校舎「明日館」は現在、重要文化財として保存されていますが、木造の洋風建築で、豪奢な感じではありませんがモダンな建物です。

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その後、1934(昭和9)年に東久留米市に移転し、共学になりました。幼稚園・初等科・中等科・高等科、そして大学相当の扱いを受けている大学部まであります。こちらのキャンパスには、畑や田んぼ、酪農場などもあり、また森林もあります。この森林で育った木は、校舎の補修や工作に使う木材となるようです。こちらのキャンパスにも、移転時に建築されたままの姿を残す古い木造洋風建築が残っています。

 

自由学園を創立した羽仁もと子は、明治時代に新聞社に入社し、やがて記者として認められ「日本で最初の女性ジャーナリスト」であるとも言われています。そして家庭生活の合理化や女子教育の重要性などを主張した先進的な思想家でした。クリスチャンであったことも知られています。

自由学園のユニークなところは、その教育方針にあります。できるだけ生徒自身による自主運営で行っていくことを目指し、農業や酪農なども生徒の手で行い、それらの収穫物を加工し、自分たちで消費したり、販売したりしています。給食も、生徒自身が自分たちで分担して調理します。英語教育には戦前から力を入れ、外国人教師も早い時期からいたようですが、あくまでも目的は「国際人」となるためであって、大学受験のためのカリキュラムではありません。

 

他の私立学校とはちょっと違うことが分かっていただけたでしょうか?

なぜ羽仁もと子は、「何でも自分で作りましょう、自分でやりましょう」という学校にしたんでしょうか?

 

自由学園が1931(昭和6)年から発行している『学園新聞』(これも生徒自身が取材・執筆・編集をしています)を調べていくうちに見えてきました。

戦前、この学園に子供を通わせていた親たちの職業は、官僚や銀行員、大学教師などが多かったようです。これらの職業は現在では庶民の職業の一つですが、この時代にあっては裕福な階級に属する人たちが就いていた仕事です。当然、戦前の富裕階級は女中など使用人を抱え、日常の様々な家事・雑事は彼らにさせていました。ある意味、使用人の存在なしには生活が成り立たないほど、その労働力に依存していたのではないでしょうか。

 

『学園新聞』には、女子生徒たちが、自分たちの給食の材料を買うためにグループで市場に買い出しにいった記事なども載っています。庶民の店で、限られた予算をやりくりしながら食材を購入することが、貴重な学習体験として報じられています。

16、7歳くらいの彼女たちが「自分でお金を払って食材を買い物をする」のは、これが初めてだったわけです。今でいうセレブな生活が当たり前の彼女たちに、世の中のしくみや庶民の生活感覚を理解させたかったのでしょう。

 

ともあれ、その名の通り「自由人」を育てようと設立された自由学園も、戦時体制と無関係ではいられませんでした。

1937(昭和12)年10月に発行された『学園新聞』には、「自由学園における国民精神総動員」と大きく見出しが載り、「出動兵士への感謝の日」「神社参拝の日」「勤労報国の日」など国策に沿った種々のイベントが校内で行われていることを報じています。

 

実は、国際文化振興会(以下KBS)が製作した映画『銃後の体育』に自由学園の生徒たちが写っていることを教えてくれたのは、同学園出身のある研究者のかたでした。ある学会で映像を見せながら発表した時に教えていただきました。

 

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この場面がヒントになりました。女生徒たちの後方に写っている建物は、現在も東久留米市のキャンパスにほぼ同じ形で残っています。

女生徒たちがしている体操は、「デンマーク体操」というものです。自由学園はデンマークの教育関係者と交流があったらしく、1931(昭和6)年にはデンマークから教員と体操選手の男女生徒数人が来校しています。その際に彼らが体操演技を披露していて、おそらくこれが始まりと思われます。その後、自由学園の一種の名物のようになってずっと(現在も!)受けつがれているようです。

 

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 『銃後の体育』は自由学園を主題にした映画ではなく、映画の英語タイトルは‟BUILDING A HEALTHY HOME FRONT”とあり、とにかく「健全なる身体に健全なる精神は宿る」という思想を基調に、女学生たちの行進・体操・マスゲーム・駆けっこ・バレーボール・勤労奉仕などの場面を次々に見せていくという内容です。自由学園という名称は字幕に出てきません。時折り英語字幕は挿入されるのですが、場所の説明などは一切ありません。

映画の最後には、明治神宮外苑競技場で行われた出陣学徒壮行会のような映像が出てきます(本当に出陣学徒壮行会なのかどうかは自信ありません…)。その入場行進を、女生徒たちが観客席で観ている場面、そして女生徒たち自身も男子学生に続いて行進するという場面でTHE ENDとなります。

この映画に関する文献資料は、現在のところ何も見つかっていません。

文字資料だけ残っていてフィルムが残っていない映画は数多くあります。一方で、フィルムは残ってるけど、その映像が何なのかほとんどよく分からない映画というのも多くあります。この映画は、KBS製作の映画という以外の情報はまったくありません。自由学園の存在が分かっただけでも、少しはマシというものでしょうか。

私の推測ですが、おそらくこの映画のフィルムが撮影された時期はバラバラです。1930年代半ばから1943年までの間に撮影されたいくつかのフィルムをつなぎ合わせたんじゃないかと思います。

国際交流基金のDVDリストには1943年製作とありますが、映画に製作年の表記はなく、また国際交流基金の職員の方に訊ねても、1943年がどの資料を根拠にしているのかを説明できる人がいませんでした。

 

とにかく謎の多い映画です。これからも気長に、ゆるーく調査していきたいと思います。