Nipponの表象

昭和戦前期・戦後期の写真・デザイン・映画をテーマに書いてます

大阪モダニズム最後の時代:朝日会館と産経会館があった頃

戦前、京阪神地域には東京とは別の独自のモダニズム文化がありました。関西の裕福な家庭の子弟を中心とした、趣味的で優雅、洒脱なモダニズムです。東京のように他の地方出身者が混じっていないがゆえの、閉鎖的かつ鷹揚なサークル文化です。

この独特の文化的風土が引き継がれていたのが、1950年代くらいまでのような気がしています。

それというのもその後の高度経済成長期に、経済だけでなく文化も東京に中央集権化されていってしまい、結果、才能あるクリエイターの多くが東京を目指すようになりました。とくに目立つのは、企業の経済活動と結びつきの深いグラフィックデザイナーたちが、1950年代から60年代にかけて大移動したことです。

山城隆一、早川良雄、田中一光、永井一正など関西の文化風土から出て来たグラフィックデザイナーたちが次々に拠点を東京に移していきました。

 

この時代の関西の文化を語るうえで忘れることができない芸術家に、具体美術協会を率いた吉原治良がいます。戦前から活動していた画家ですが、終戦直後から1960年代までの関西のアートシーンにおける中心人物でした。

家業の製油会社の経営者であった吉原は、1972年に亡くなるまで関西を離れませんでした。彼が関西の若い前衛美術家たちに与えた影響は大きなものでしたが、実は奈良出身の若き日の田中一光にも多大な影響を与えています。

田中がまだグラフィックデザイナーとしての仕事をほとんど始めていない無名時代に、吉原はその才能を認め、彼をクリエイティヴな場所に引き上げました。その重要性を考えると、日本の近代美術史のみならず、日本のグラフィックデザイン史にも影響を与えたといえるでしょう。

 

今回は、吉原が関わっていた或る二つの文化会館について紹介します。

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かつて大阪には、中之島に大阪朝日会館、北区梅田に大阪産経会館がありました。

戦争で焼跡となった大阪が復興し、徐々に商都としての姿を取り戻していった1950年代にこの二つの会館では毎年様々な文化的イベントが催され、文化や娯楽に飢えていた当時の人々はそれらに押しかけました。その黒い壁の朝日会館と白い壁の産経会館は、戦後の大阪文化を牽引したいわば「文化の殿堂」でした。

 

建設されたのは朝日会館の方が断然早く、1926(大正5)年10月に開館しています。地下1階、地上6階建ての建物で、朝日新聞大阪本社の隣にありました。

 

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内部には最新の舞台設備を備えていたようで、劇場としては日本初のルンドホリゾントと呼ばれる壁を舞台奥に設置していました。客席数は1600席ということですから、当時としては大劇場といえるのではないでしょうか。戦前は、築地小劇場・前衛座・前進座・文学座などの演劇や、能・狂言、クラシック音楽の演奏会などが行われたようです。

当時の大阪には中之島中央公会堂以外に大規模な文化的催しのできる施設はなかったそうで、朝日会館は「ガスビルとともに、昭和の初め頃の大阪のモダニズムのシンボルとみなされていた」(『なつかしの大阪朝日会館 加納正良のコレクションより』)そうです。

戦後は、前進座や人形浄瑠璃の公演、アサヒ・シンフォニー・オーケストラ、日本交響楽団などの演奏会、バレエ団の公演などが行われました。

 実は朝日会館のあった堂島には、毎日会館というものもありました。こちらも各種の催しを行っていました。戦前・戦後を通じて、中之島あたりが大阪の文化の中心地だったようです。 

 

それに比べると産経会館のあった北区梅田町は、戦後に大きく発展した地域です。事実、産経会館が竣工したのは1952(昭和27)年7月のことです。地下1階、地上9階建ての真新しい白い建物は、復興期の人々の目にまぶしく映りました。

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時節を反映していて興味深いのが、建物の中のワンフロア(6階)を「アメリカ文化センター」という施設にあてているところです。この施設の図書室には、アメリカの書籍や雑誌、新聞、パンフレット、スライド、フィルム、レコードなどが備えつけられ、無料で閲覧利用や資料借出できたようです。アメリカ文化の情報を求めていた知識人や学生にとっては、貴重な場所だったでしょう。

ホールでは、演劇や音楽演奏会、能・狂言、映画上映などが活発に催されました。

 

実は、朝日会館と産経会館が大阪の地に共存していた時期は、そう長くはありません。

朝日会館は1962(昭和37)年に閉館します。一方、産経会館は途中、サンケイホールと名称を変え、2005(平成17)年7月まで存続しました。この二館が文化の覇権(?)を競っていたのは、ちょうど10年間なのです。

 

吉原治良は、この二館で催されるバレエやファッションショーの舞台美術を担当したり、パンフレットの表紙をデザインしたり、あるいは朝日会館が発行していた雑誌『會舘藝術』に随筆を書いたりしています。

彼のデザインした舞台美術については、加納正良が模写した絵や、断片的な数枚の写真が残っているだけです。パンフレットは何点が原本が残っています。

ここでは著作権の関係上、お見せすることはできませんが、舞台美術は1950年代初め頃の吉原の絵画によく似た抽象的な造形です。パンフレットの表紙のほうは、彼の抽象絵画を良い意味でもっとラフに気楽にした感じと言ったらいいでしょうか。やはり抽象画ですが、早川良雄のイラストのような柔らかく洒脱なデッサン風のものです。 

 

当時の彼がこうした、いわば‟本業”から離れた仕事をしていた理由はわかりませんが、一つには戦後の経済的苦境もあったのではないかと言われています。しかし、やはりそれだけではなかったのではないでしょうか。

1950年代頃はまだ、現在ほど芸術ジャンルの棲み分けが明確ではなく、とくに関西では美術・デザイン・書道など各ジャンルのクリエイターが交わり合い、芸術グループの離合集散を繰り返すなど、ゆるーい結びつきがありました。

ですから吉原もおそらく、これらの‟雑仕事”に対して決して後ろ向きな姿勢だったのではなく、むしろ自分の創作の範囲を広げることを楽しんだのではないでしょうか。

 

このあたりについては、何か資料が見つかればもっと検証できたらいいと思うのですが、吉原関係に限らず意外と1950年代のものはあんまり残っていないのですよね。

この頃はまだまだ、みな日々を生きることに必死だったのかもしれません――。