Nipponの表象

昭和戦前期・戦後期の写真・デザイン・映画をテーマに書いてます

『プレスアルト』と関西グラフィックデザイン(其の1)

戦後、高度経済成長へひたすらまい進した日本では、経済と文化の中央集権化が急速に進みました。平たく言えば、東京への一極集中です。

1950年代後半から、関西発祥の企業も本社機能を東京に移すようになりました。商業デザインはクライアント(企業)から遠く離れた場所にいては、仕事がまわってきません。関西のグラフィックデザイナーたちもまた、大きな仕事のチャンスを求めて東京に移住していきました。

移住者の顔ぶれは関西のグラフィックデザイン界を代表する大物や、新進気鋭の者たちです。山城隆一、早川良雄、田中一光、永井一正らをはじめ、多数の関西からの移住者たちが東京のグラフィックデザインに合流し、その後の日本のグラフィックデザインの発展に大きな影響を与えました。

上記四人の中で、永井一正は大阪出身ながら東京芸大(彫刻科)で学んでいますが、山城・早川は大阪市立工芸学校、田中は京都市立美術専門学校を卒業し、そのまま大阪で図案家(1950年代初め頃は、まだグラフィックデザイナーという呼称は日本では一般的ではありませんでした。デザイナーという言葉が使われるようになっても、しばらくはデザイナーといえば服飾デザイナーを指していました)として就職しました。そして大阪でそれなりに知られるようになってから、東京へと拠点を移しました。

 

現在に比べて欧米のデザインの情報を得ることが難しい時代です。東京には戦前から山脇巌・道子夫妻や水谷武彦などバウハウス仕込みのデザイン理論を教える人物もいるうえに、渡航経験者も多く、海外からの情報が入って来やすい環境がありました。

いっぽう関西には、欧米のデザイン理論や最新トレンドを教えられる人はほとんどおらず、関西の図案科の学生やデザイナーたちは、通っている学校や勤め先の企業の宣伝部などが取り寄せている欧米の雑誌から、そうした情報を入手していたようです。 

 

しかしそんな時代に、関西のグラフィックデザインと欧米グラフィックデザインをつなぐ役割を果たした関西ローカルのデザイン専門誌がありました。

それが『プレスアルト』です。

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上の図版は、1953(昭和28)年9月発行の第120号に添付されていた会報の口絵です。『プレスアルト』は書店で販売されるのではなく、会員制でした。

 

『プレスアルト』を創刊したのは、脇清吉という人物でした。脇はもとは北海道生まれでしたが、学歴もお金もない紆余曲折の生活ののち、1934(昭和9)年、京都高等工芸学校正門前に古本屋を開業します。そして店主とお客の関係から、同校の図案科長だった本野精吾、霜鳥之彦、向井寛三郎といった関西のデザイン人脈と知り合うこととなりました。これが、脇の人生を変えることになるのです。

 

1936(昭和11)年に脇は、その頃近鉄の宣伝課長をしていた橋本達吉からある企画を提案されました。それは、実際の宣伝広告印刷物を集めてデザイン資料として単行本にしたらどうかというものでした。

この企てを本野、霜鳥、向井に相談したところ、将来性のある有意義なことだと言われ、脇は彼らに指導を受けながら発行にとりかかります。『プレスアルト』というタイトルは、本野がエスペラント語から名付けました。

 

第1号は作品27点を収録し、1937(昭和12)年1月に発行されました。宣伝広告印刷物の実物を頒布するというやり方だったため、最盛期でも発行部数は300部に限定されていました。

宣伝広告印刷物、と言われてもピンとこないかもしれませんが、要するにチラシやポスター、カタログなどのことです。それらの実物に批評などが掲載された会報が一緒に綴じ込まれ、一冊になっています。創刊当初はまだこの雑誌の意義を周囲に理解してもらえず、宣伝広告印刷物の実物を多数集めるのはかなり大変だったと脇はのちに語っています。

 

「会報」には、図案家たちの短文や批評などが掲載されていました。

当初はあくまでも作品集の付録に過ぎない位置づけでしたが、第6号(昭和12年)に、そのころ南海高島屋勤務だった今竹七郎が「風土・印刷・図案」の短文を寄せると、その次号の7号で、河田栄が「今竹七郎君の形式主義とその命数について」と応酬する事態が起きました。いつの世も、著名人どうしの論争(喧嘩?)はメディアを活気づけます。以後、会報の誌面は作家たちによる意見表明の場として機能するようになり、会員たちも、作品集よりもむしろ会報のほうに強い興味を持つようになっていったのでした。

 

面白いことに、こうやって「作品」として批評の対象になり始めたことによって、図案家自身の意識も変わっていきました。図案家たちは、『プレスアルト』を制作活動の発表の場として位置づけるようになっていきます。とくに新人にとっては、『プレスアルト』に自分の作品が掲載されることが大きな励みになりました。彼らは作品を提供するだけでなく、自分の制作意図についても誌面で語るようになります。

 

 デザイン史を調べる者にとっては、『プレスアルト』の会報は戦前・戦後の図案家たちの情報や意見を知ることができる貴重な資料なのです。

 

『プレスアルト』は、しだいに関西のデザイン・印刷関係者の間で認知されるようになり、第36号(昭和15年)を発行する頃からは作品の収集もだいぶん容易になってきたようです。

しかし軌道に乗ってきたのも束の間、翌年に『プレスアルト』はエスペラント語であることが当局から問題視され、『印刷報道研究』に改題することになります。

そして1944(昭和19)年、ついに第73号をもって廃刊となりました。理由は、戦時体制下、情報局の指導のもと宣伝広告関係の雑誌が統合されたためでした。翌年7月、ついに発行人である脇にも赤紙が来ます。脇は43歳で出征することになりました。しかし幸いなことに、遠征出航の前日に終戦。脇と『プレスアルト』の運命は、こうしてからくも戦後の日本に生き延びることができたのでした。

 

再び『プレスアルト』が復刊するのは、終戦から4年近く経った1949(昭和24)年1月でした。

に続く。

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