Nipponの表象

昭和戦前期・戦後期の写真・デザイン・映画をテーマに書いてます

『プレスアルト』と関西グラフィックデザイン(其の2)

前回の続き。

『プレスアルト』と関西グラフィックデザイン(其の1) - Nipponの表象

 

さて、戦後の『プレスアルト』のお話になります。

戦時中、亀倉雄策や原弘など東京のデザイナーたちの一部は国家機関の宣伝事業に従事することで何とか生きのびていましたが、その他の多くのデザイナーたちは徴兵され、戦地に派兵されました。早川良雄も中国大陸に出征しています。山城隆一は幸か不幸か、虚弱体質であったため兵役は逃れました。

 

戦時下の混乱の中で、多くのデザイナーが消息不明となりました。そして終戦ーーー。空襲による焼跡がそこかしこに残る戦後まもなくの大阪で、『プレスアルト』が再び関西のデザイナーたちを結びつけていきます。その頃の様子を、沢村徹が『碑 ―脇清吉の人と生活』(1967年)で以下のように回顧しています。

 

 終戦の翌年の六月のことであった。(中略)空空漠漠の中の大阪駅に降り、(中略)初めて仲間はどうしたんだろう。山城隆一は生きているんだろうか。早川良雄は、今竹さんは、山名さんは、重成さんは、プレスアルトの脇さんは…と、野戦にいた四年をタイムトンネルのようにくぐりぬけて、むしようにそれらの仲間に会いたくなってきた。

 もつれていた紐が次第に解けて行くように、仲間たちの消息が判ってくると同時に、それらの友人たちが、デザインの仕事に未だ、だれ一人たずさわっていないのも知った。(中略)

 そんな時、脇さんが、疎開先から手紙をくれた。大阪へ出て「プレスアルト」を復刊するというのである。

 

戦前の会員たちがポツポツと大阪に帰ってくると、彼らから『プレスアルト』の復刊を望む声が出てくるようになりました。そして1949(昭和24)年1月、『プレスアルト』第74号が発行されました。

 

その頃、発行人の脇清吉は家族とともにガード下に住んでいましたが、翌1950年にようやく屋根のある家に移りました。

が、その後まもなくジェーン台風で屋根が吹き飛ばされるという災難に見舞われてしまいます。しかしそんな状況にあっても、脇は家の修理よりも原稿の執筆と作品の整理を優先させました。彼にとって、『プレスアルト』は生涯をかけて心血を注いだ存在でした。

こういう専門誌は決して儲かるものではなく、しかも『プレスアルト』は広告の実物を頒布する性質上、需要があっても量産に限界があるので商売としては先が見えています。経費を抑えるために、配達は脇自身が自転車で大阪じゅうを駆け回って行っていたということです。

 

1950年代は、『プレスアルト』と関西グラフィックデザイン界にとって激動の時代でした。というのも、日本のグラフィックデザイン界そのものがこの時期、大きく変化するのです。大きな出来事はいくつもありますが、1951年(昭和26)年に日本宣伝美術会(日宣美)というデザイナーの全国的な職能団体ができたことはその筆頭にあげられるでしょう。

日宣美については瀬木慎一・田中一光・佐野寛監修の『日宣美の時代』(2000年)に詳しく書かれていますのでそちらを参照していただくとして、私としては、東京と関西のグラフィックデザイナーどうしを引き合わせていくことに尽力した『プレスアルト』と脇の功績について触れておきたいと思います。

 

1950年頃、大阪・千日前の花月グリルで、脇は東京から招いた山名文夫に早川良雄や山城隆一、沢村徹、重成基、奥野英雄など関西のグラフィックデザイナーたちを引き合わせました。実は東京と関西のデザイナーは、それまでほとんど交流がありません。(おそらく)関西のほうは、亀倉雄策や山名など東京のグラフィックデザイナーのことを意識していたでしょうが、東京のほうは関西のことをほとんど知りませんでした。

東京のグラフィックデザイナーや批評家に、関西のデザイナーたちの作品を送って作品評を書いてもらったり、前述のように作家どうしが交流できる場を設けたりして、少しずつ関西のグラフィックデザインが全国区になるよう陰の努力を続けたのです。

 

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 こちらは『プレスアルト』第124号(1954年2月)の会報の口絵。田中一光、24歳の頃の作品。

 

私が戦後の『プレスアルト』に関心を持ったのは、DNP文化振興財団の所蔵する「田中一光アーカイブ」で実物を見たことがきっかけになっています。このアーカイブは、田中の死後、田中一光デザイン事務所にあったものを一括して寄贈されたことから設立されました。

その中に、1950年代に発行された多くの『プレスアルト』がきちんと保管されていました。もちろん田中自身が取っておいたものです。1955年発行の『プレスアルト』第137号は「田中一光特集」です。当時、田中はまだ25歳で目立ったキャリアがあった訳ではありません。しかし脇は、田中の将来性を高く買っていました。また、田中にとっても『プレスアルト』は憧れの雑誌であり、そこに自分の作品が収録されることをとても名誉に思っていました。

脇自身は、美術やデザインの専門教育を受けた人ではなかったようです。しかしその後の田中の活躍をみれば、脇が慧眼の持ち主であったことは異論がないでしょう。

 

また、戦後初めてスイスの専門誌『グラフィス』に日本のグラフィックデザイナーの作品を紹介し、日本と海外との交流のきっかけを作ったのも、脇でした。

始まりは、1950年のことです。脇は『グラフィス』主幹のウォルタ・ハーデグ宛てに、日本のグラフィックデザイン作品の実例を送付し、それに対するハーデグの論評を依頼する手紙を送りました。その手紙と実例を見た副編集長のW.P.ジャスパートが脇に返事を書いたことで、両者の交流が始まりました。

その時送った日本のグラフィックデザイン作品は、日本特集号として『グラフィス』に掲載されました。

戦後の日本グラフィックデザインが海外で知られていくようになる最初のきっかけとなったのが『プレスアルト』であったことは、関西のグラフィックデザイン界にとっては大きな意味があります。なぜならそのおかげで、海外で最初に紹介されたものが東京ではなく関西のグラフィックデザイナーの作品になったのですから…。

大阪といえど、日本の中では東京に対してローカルな位置づけでしかありません。それが東京を飛び越えて、彼ら関西の作家たちが先に国際的なグラフィックデザイナーとして認知されたのです。

 

このことは、関西のグラフィックデザイナーたちに、東京ではなく海外を意識して仕事をするという新たなモチベーションを与えたのでした。