Nipponの表象

昭和戦前期・戦後期の写真・デザイン・映画をテーマに書いてます

「写真は舌足らずである」:名取洋之助の‟体験的写真論”

名取洋之助(1910-1962)は、日本の報道写真家の草分けであり、グラフ雑誌というビジュアル・イメージ中心の新たなメディアを日本に導入したパイオニア的人物です。1920年代末にドイツに渡り、ドイツ最大の出版社ウルシュタイン社の契約写真家として活動した後、23歳で帰国。写真通信社「日本工房」を設立し、歴史に残る対外文化宣伝グラフ誌『NIPPON』を発行しました。日本写真史を語る上では欠かせない重要人物です。

名取洋之助の功績やその評価については、白山眞理さんが詳細な論文を多数発表しています。

 

素晴らしい功績の持ち主ですが、人物像もかなり強烈だったようで、三神真彦『わがままいっぱい名取洋之助』(ちくま文庫)を読むと、かなりアクが強い性格だったようです。時代のせいもありましょうが、現在からみればパワハラ・セクハラ的エピソードも多い。しかしそれにもかかわらず、人間的に愛嬌があり結局のところ憎めないタイプだったようです。

 

前述の『わがままいっぱい~』には、名取の人物像をうかがわせる数々のエピソードがあります。

例えば、「人間は一日に三度しか食べられない。一度でもまずいもの食ったら人生の重大な損失だ」と常日頃力説していて、実際、おいしい食事のためには労を厭わなかったとか。夜中に車を飛ばしてお気に入りの女性と横浜にアイスクリームを食べにいったり、自分とスタッフの仕事の徹夜明けの朝食のために、早朝一人で焼き立てのパンを大量に調達したりと、とにかくエンゲル係数が高そうな生活を喜々として送っていたようです(当然、肥満体でした)。

仕事面でも、日本工房で働いていた頃のまだ二十歳かそこらだった亀倉雄策や土門拳などの仕事が気に入らないと徹夜でやり直しを命じたり、恨みを買うほど貶したりと激しかったようです。しかも当時は名取本人も20代半ばくらいなわけで、それほど年が違わないにもかかわらず「俺の言うことが絶対的に正しい」という圧倒的な上から目線での指導(というより命令?)。

信奉者もいるけど敵もつくるカリスマ・タイプです。

 

名取洋之助の著作は、三冊あります。

『新しい写真術』(1955年)、『組写真のつくり方』(1956年)、そして『写真の読みかた』(1963年)です。三冊目の『写真の読みかた』は名取の死後、書きためていた原稿を木村伊兵衛と岩波写真文庫の編集者だった犬伏英之が整理して出版したものです。

この中で私が読むことができたのは『新しい写真術』と『写真の読みかた』です。どちらも名取の写真論が中心なので、主張するところはほぼ一緒といえるでしょう。

 

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こちら、『新しい写真術』の表紙カバー。裏は傷みがひどいので表紙だけ載せますが、裏表紙までひろげると、眼の大きなアップになっています。

 

名取洋之助の人となりをより生々しく感じさせるのは、『新しい写真術』の方です。『写真の読みかた』はやはり他人が監修したためなのか、語尾がです・ます調になっていたりして、いまひとつ大人しめな印象です。

名取は自分の文章にあまり自信がなかったようで、大概は書きたいことを誰かに話し、それに手を入れて発表していたそう。『写真の読みかた』の方は比較的淡々とした書き方になっているのは、岩波新書用にまとめられたものだからでしょうか。

 

今回は、この『新しい写真術』という不思議な魅力のある本を紹介します。

先述したように、必ずしも名取が一字一句書いたとは言えない著書ですが、尖った表現や印象的な文章がたくさんあります。木村伊兵衛が「名取さんは、なかなか味のある文章を書いた」とも述べていることからも、こうした文章の表現力は名取自身のものではないかと推測します。

その言語感覚が、とてもセンスがいいのです。

 

例えば、「記録性」と題した章ではこんな文章があります。

写真は感光材料の上に残した光線の陰である。その影は、私達が眼でみる現実の世界の像を写しとめておく。又流れ去り、二度と来ない時間をとどめておく。

 

名取本人は、作家が自己満足で行う表現活動を「お芸術」と言ってバカにしていたので、彼の文章は出来る限り物事を客観的・即物的に捉え、説明しようとしています。しかし所々で、意に反して(?)詩的でさえある表現が紛れ込み、そこがこの本の魅力になっています。

 

ところで、この本は『新しい写真術』というタイトルですが、技術の紹介ではなく、彼がこれまで積み重ねて来た経験をもとに、「写真とはこういうものでなくてはならないのだ」という独自の写真論を思うさま主張している本です。

名取自身の経験がベースになっているところがミソで、普遍性があるのかとか、一般的な写真理論なのかというとどうも少し違うような気もしますが、とにかく「行動」「実行」の人物ですから、自分の経験には物凄く自信がある。

ニュートラルな写真理論書というよりは、“体験的写真論”というほうがぴったりします。

 

『写真の読みかた』のほうにはいくらか『NIPPON』や日本工房についての文章がありますが、こちらの本で具体的事例として登場するのは、もっぱら戦後の業績である『岩波写真文庫』の方です。

そういう意味では、『岩波写真文庫』における写真の選別方法やレイアウトについての解説書として読むこともできます。

 

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『岩波写真文庫』は1950年から58年まで、平均して月四冊のペースで全286冊が刊行されました。

写真を中心にしたグラフィック重視のスタイルは当時においては斬新で、テーマによっては10万部を超えるベストセラーにもなりました。

 

さて、表題にあげた「写真は舌足らずである」という言葉。

これは『新しい写真術』の中で、写真の表現力の限界について形容した言葉です。しかし、実はこの言葉の直前には「写真はおしゃべりである」とまったく反対のことも言っています。

どういうことでしょうか。

 

名取の写真論において重要な概念に、「物語る写真」というものがあります。

写真は「記録」するという機能を持っていますが、事実・情報を「伝達」する手段でもあります。しかし、一枚の写真を見た時、私たちは必ずしも写真家が「伝えたい」と思ったものだけを見るわけではありません。絵画と違い、(記録としての)写真は、画面内にあまりにも多くのものが写り込んでいます。そのことを、名取は「写真はおしゃべりである」と形容しているのです。

 

写真は必要以上におしゃべりである。ニューヨークも高層建築がすばらしいと思ってそれを撮ってきても、ある人はそこに写っている自動車の型に興味を持ち、ある人は、ニューヨークの街はゴミだらけだと思うだろう。必要なことだけを素直に話してくれる写真は殆どないといってよい。写真はおしゃべりであるだけに厄介なことがある。

写真は情報量が多すぎて余計なことまで伝えてしまう、ということを「おしゃべり」と形容する、そのセンスが素晴らしいですね。

 

しかしその一方で写真は、写真家が伝えたいことを的確に伝えていないという意味では情報が足りないともいえます。とくにそのメッセージが抽象的・観念的であればあるほど、伝えることは難しくなります。それが「写真は舌足らずである」という言い方で表現されています。

 

戦争だとか、平和という言葉を一枚の写真で表現しようとする事は、大へんな難事業である。写真というものは、おしゃべりなようで、云いたいことはなかなかしゃべってくれない。写真は実はおしゃべりなようで、一方舌足らずなのである。

 

「写真」というメディアが、まるで“生き物” のように語られています。

 

ちなみに、名取は絵画の美意識を手本にしてあらかじめ絵画的構図を考えて撮影した写真を「芸術写真」と呼び、すでに過去のやり方となった時代遅れの写真術と考えていました。彼の著書の中で、その代表としてしばしばやり玉に挙げられたのが、福原信三(戦前の資生堂の社長でアマチュア写真家として名高かった)が1923(大正12)年に発表した『光と其の諧調』という写真集です。

それに対し、彼がしばしば「新しい写真術」の方向性として挙げたのが、熊谷元一の『小学一年生』(岩波写真文庫)でした。撮影当時、熊谷は現役の小学校教師で、彼が子供たちと日々接しながら、彼らの普段の飾らない姿を撮ったのがこの写真集です。当然、あらかじめ構図を決めて撮ったものではなく、子供たちにカメラの存在を忘れさせるくらい時間をかけて、喧嘩や仲直り、遊び、食事などの様子を自然な姿のままで撮影したものです。

 

名取の考えでは、写真とは何か目的があって撮るものであり、伝えたいことを伝えるためのコミュニケーションの手段でした。万年筆で文章を書くように、写真によって一つのまとまりのある意味(文章)を表現するーーそれが「物語る写真」であり、新しい写真術なのです。

しかし、先述したように、写真は「おしゃべり」だけど「舌足らず」です。なかなか写真家の思い通りのメッセージだけを伝えてくれない。

 

そこで、名取が推奨するのが「組写真」という手法です。

写真の「おしゃべり」を有効にする方法は二つあります。一つは、余計な物は写さないこと。

もう一つの方法は、同じような写真、同じ傾向の写真を何枚か並べて見せることです。

 

つまり、同じ目的を持った何枚かの写真を見せることにより、個々のおしゃべりの共通部分だけが強調され、他の存在が弱くなる。重ねることによる省略法で、これは写真によって発見された新しい方法であり、近頃の小説家が、写真や映画から学んで文学でも使っている方法である。

 

そして写真を何枚か並べることによって、写真のおしゃべりがとめられ、自分の思うことだけしゃべれることが発見されると、ここに写真の新しい一つのジャンル「組写真」が出現した。写真が勝手にしゃべるのではなく、写す者、編集するものが、物語らした写真である。…(中略)組写真になってはじめて、写真は単なる事実の記録から、一つの物語りをする、文章と同様なコミュニケーションの一つの手段となったといえよう。

 

ごく簡単にまとめてしまうと、以上が名取の写真論の核心部分ということになります。

そして、組写真の具体的な構成方法として提案するのが、新聞記事の書き方などでよく言われるところの五つのW(When・Where・Who・why・What)の原則を組写真に適用するやり方です。

 

原則として、五Wは語りたい事をはっきり伝えるための最少限の要素である。

これだけ揃えば、物語る写真としての最低の要求は充たせる。必要なことだけは間違いなくしゃべってくれる。

 

しかし、組写真で五つのWを揃えれて見せれば、写真は必要なことを過不足なく伝えてくれる…というのは、一見なかなか良さそうなやり方にも思えますが、少し冷静になって考えると、その5Wを表現することそのものが難しいことがすぐに想像できます。なにしろ、鑑賞者の目線は、いろんなものを好き勝手に見てしまうのだから。

名取もそのあたりの矛盾には気がついているのか、組写真を補足する説明文を加えることを提言しています。なんだ、やっぱり文章必要じゃん…。

ただし、説明文の内容は写真を見ればわかるようなことや感情に訴えるようなことではなく、「写真が語っている事を裏づけるような事実、写真では語りにくいデーターなどをつけるのが、組写真の説明の本筋である」とも言っています。

 

名取が自身の“体験的写真論”を積極的に文章化するようになったのは、1950年代に入ってからのことです。戦前からアメリカの『LIFE』などを参考にしながら、『NIPPON』などで組写真の技法を使ってきてはいたものの、対外文化宣伝メディアという性格上、事実を伝達することには制限がありました。

それが戦後になってようやく、名取が本来目指していた報道写真のあるべき姿を、堂々と実践することができるようになりました。それが『週刊サンニュース』だったわけですが、あいにく商業的には成功しませんでした。

しかしその次に手がけた『岩波写真文庫』は大成功を収め、名取としては、「ようやく俺の時代がきた」という気分だったのかもしれません。

この『新しい写真術』を読むと、当時、一部の人々に思われていたような傲岸不遜なジャーナリストのコワモテイメージよりも、むしろ繊細で感覚的なアーチストであった名取洋之助の姿が思い浮かびます。

技法や技術以上に、価値観や美学を語っているのです。

 

「芸術」を嫌う「芸術家」ーーという名取洋之助の矛盾する性質は、彼の晩年の仕事に大きな影響を与えることになりました。

このことについては、また別の記事をつくって考察したいと思っています。

 

名取の戦後の仕事のひとつにこんなのもあります。

1964年東京オリンピック前の風景:「ここにあなたは住んでいる」展と写真集『東京』 - Nipponの表象