Nipponの表象

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南方留学生と観光宣伝映画:国際観光局製作『雪に集ふ』(1942年)が宣伝したいコト(其の1)

私が長く関心を持ってきた戦前の文化(宣伝)映画として、国際文化振興会(以下KBS)が製作した小学校映画について以前の記事で紹介しましたが、

プロパガンダ映画に描かれた「学校生活」(其の1) - Nipponの表象

プロパガンダ映画に描かれた「学校生活」(其の2) - Nipponの表象

プロバガンダ映画に描かれた「学校生活」(其の3) - Nipponの表象

KBSと非常によく似たタイプの文化(宣伝)映画を製作した国際観光局という機関があります。

KBSは外務省の外郭団体という位置づけですが、国際観光局はKBS設立より三年早い1930(昭和5)年に鉄道省内に設立された機関です。名称からも分かる通り、外国人の訪日客を増やすことが目的の一つで、「観光宣伝」(つまり海外に向けてのプロモーション)を行っていました。

 

ここで、少し当時の訪日客状況について説明しておきます。

国際観光局の資料によれば、訪日客の数は世界恐慌の影響で1929(昭和4)年以来、年々減っていたようです。おそらくこのことが、国際観光局の設立に関係あるのでしょう。さらに、十五年戦争(1931年柳条湖事件)の影響も受け、1932(昭和7)年前半期まではズルズル減り続けたようです。しかしアメリカの景気が回復しはじめたことで、1933年からは訪日客が戻り始めました。

1933年当時の訪日客の内訳は

①中国人(約8100人)②アメリカ人(約6100人)③イギリス人(約5500人)④ドイツ人(約1100人)⑤ロシア人(約1000人)⑥フランス人(約700人)

その他の国が約3800人ということで、ざっと2万6400人くらい。

アメリカ人とかイギリス人と聞くと本国からはるばるやって来たように思いますが、中国居住の欧米人も多く、円安や中国国内の政情不安などが、彼らの訪日の要因になっていたようです。

 

さて、国際観光局は観光宣伝のために様々なことをやりました。

海外博覧会への出品、英文ガイドブックや旅行記の出版、海外新聞・雑誌への広告、絵葉書・カレンダーの製作、そして観光宣伝用映画の製作です。

観光宣伝が目的なので、当初製作された映画は日本の観光地の風景を写したものが中心でした。しかし日本に興味を持ってもらい、行ってみたいと思わせるには、ただ風光明美な観光名所を見せているだけでは限界がありました。日本の文化や風俗、日本人の日常生活などを映画の内容に取り入れた方が、外国人に関心がもたれることが段々と分かってきます。

そこで、日本の祭りや日本人の家庭を取り上げた映画や、日本の都市生活と田舎を対比させた映画などが作られました。日本で楽しめるレジャーとして、ゴルフや山登り、着物の着付けや相撲観戦、日本料理なども内容に盛り込まれました。

 

そうしたある意味、のどかな観光宣伝映画を製作していたのが、およそ1930年代末まででしょうか。

1940年代に入ってから、次第に観光宣伝映画に観光宣伝以外の要素が紛れ込んでくるようになります。そして、いつしかそちらのほうが、むしろ映画の前面に強くあらわれるようになるのです。

そう、いわゆる“戦時下のイデオロギー”です。

 

今回紹介したいのは、まさに太平洋戦争期の日本という状況下にあったからこそ作られた映画です。この時期、多くの国策映画が作られましたが、この映画が特殊なのは、これが国際観光局という観光宣伝を目的とする機関が製作したという点でしょう。

果たして、この映画が「観光宣伝」にどのように資するものなのか、明確な答えはまだ見つかりませんが、今回この記事で取り上げることで、少しでも自分の中で整理できれば、と思います。

 

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今回、紹介する映画は、1942(昭和17)年製作『雪に集ふ』です。この映画、元々のタイトルは「スキーに結ぶ東亜の学徒」でした(この旧タイトルがもう内容を表してますね…)。

 

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国際観光局は、『国際観光』(1941年からは『観光』)という機関誌を発行していました。私がこの映画の存在を知ったのも、この機関誌に映画の紹介記事が写真図版とともに掲載されていたからです。

映画そのものが現存しているのかは不明です。もし残っていれば、戦時下の日本映画の一側面を伝える貴重な資料でしょう。

 

映画研究は、やはり実際のフィルムを観ていないことにはどうしようもなく、どれほど興味があっても研究に限界があります。

しかしこういう映画がかつて製作されたという事実は面白いことだと思うので、文献資料をもとに、現在の私にできる範囲内ではありますが、紹介したいと思います。

 

 まず、『雪に集ふ』とはどんな映画なのかを、機関誌『観光』の記事を基に再構成してみます。

 

主要登場人物:中国、フィリピン、安南(ベトナム)、タイ、インド、インドネシアの六ヵ国からの留学生。みな20代(一人だけ19歳)で、タイ人が最も多い(女性6人、男性5人)。全体の人数は30人ほど。

ロケ地:1942年3月3日~6日・妙高高原赤倉スキー場および観光ホテル(おそらく1937年開業の赤倉観光ホテル)。3月7日~12日・志賀高原スキー場およびホテル(おそらく1937年開業の志賀高原ホテル)。

ストーリー:東京の学校でそれぞれ学んでいる留学生たちが、スキーを担ぎ連れ立って雪国に出掛けていく。彼ら南方諸国の若者たちは知識でしか知らなかった雪の壮麗さを、初めて目の当たりにする。しかもそこでは同年輩の日本の学生たちが、縦横無尽のスキーの妙技を見せている。そこで彼ら留学生たちは、日本の学生たちから手取り足取りでスキーのやり方を一から教わることになる。何度も転んだり、起き上がったりしながらも次第に上達していくうちに、留学生と日本の学生との間に親しみが芽生えていく。さらに、留学生たちの間にも、民族の垣根を超えた友情が芽生え、「東亜を一環とした共同の建設的使命」が自覚されてゆく。

 

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演出・撮影は井上莞(芸術映画社)。

 

ストーリーをみれば明らかなとおり、この映画は「大東亜共栄圏」のイデオロギーをそのまんま具現化しています。何のヒネリもないと言っていいくらい分かりやすい。

実際、この映画の製作意図について、富永次郎なる国際観光局関係者とおぼしき人物が機関誌『観光』(1942年4月・2巻4号)で以下のように記しています。

 

以上述べたところでも明らかなやうに、これは単なるスキー映画ではない。雪とスキーとを媒介として、日本の国土の特質、銃後国民の余裕、底力、国民の抱擁性、またスキーといふものが心身の錬成に重要な役割を持ってゐること――かういふ様々な要素を、この映画は、実際に彼らの眼で把へ、彼らの口を以って語るといふ形式で示さうとするのである。さういふ宣伝性を、われわれはこの映画によつて実現しようとした。

 

まあ、このようにはっきり言っているので、それ以上でもそれ以下でもない(?)映画ということになりますが、私がここで気になるのは、国際観光局がなぜこの映画を製作したのか、果たしてこれは何のための映画なのかということと、こんな形で“戦時下ニッポン”に協力させられることになってしまった留学生たちの事情です。

彼らの胸中やいかに…?

 

(其の2)に続きます。 

南方留学生と観光宣伝映画:国際観光局製作『雪に集ふ』(1942年)が宣伝したいコト(其の2) - Nipponの表象