Nipponの表象

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南方留学生と観光宣伝映画:国際観光局製作『雪に集ふ』(1942年)が宣伝したいコト(其の2)

前回の記事では、国際観光局製作の映画『雪に集ふ』が、観光宣伝映画に名を借りた“大東亜共栄圏イデオロギー”宣伝映画であると書きました。

南方留学生と観光宣伝映画:国際観光局製作『雪に集ふ』(1942年)が宣伝したいコト(其の1) - Nipponの表象

 

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機関誌『観光』(1942年4月)に掲載された『雪に集ふ』紹介記事ページ。右下のキャプションは、こんな煽り文句です。

みんな揃った さあ 出発だ

誰も踏まない雪のみち 拓いて行くのだ僕達は 踏んで固めて進むのだ

この清浄の雪のうへに 誰も仕遂げた事のない 東亜の民の大東亜築く

使命の進軍だ さあ 出発だ

 

勇ましい煽り文句と留学生たちの明るい笑顔との間にギャップを感じます。

実際、彼らにとってはスキーと山登りを楽しむことだけがこの旅行の目的でした。国際観光局は、「在日留学生の冬季スポーツに関する発声映画の撮影」という名目で彼らを招待したようです。何人かの留学生の感想文を読むと、初めてのスキーや雪山の体験について、日本での楽しい思い出が作れたと屈託なく喜んでいます。

 

ところで、この映画に登場する留学生たちはこの映画が制作された時点ですでに日本に在住しているので、おそらく私費留学生ではないかと思われます。つまり裕福な家庭の子女で、何らかの個人的目的があって、あえて日本を留学先に選んだ若者たちでしょう。

 

南方の占領地から日本の国費で留学生を誘致する制度ーーすなわち「南方特別留学生」制度が始まったのは、『雪に集ふ』製作の翌年の1943年でした。

この制度については、倉沢愛子『南方特別留学生が見た戦時下の日本人』(草思社・1997年)を読んで知りましたが、興味深い点がいろいろあります。この本から得た情報をもとに、当時の状況について少し整理します。

 

 1934年に外務省に文化事業部が設置され、その翌年12月に、留学生受け入れ事業の推進母体として外務省の外郭団体・国際学友会が設立されました。会長は近衛文麿。倉沢さんの本によれば、国際学友会は明らかに日本政府の「文化事業」の実行機関として位置づけられており、経費は100パーセント外務省から支給された国策団体だったそうです。このあたり、国際文化振興会(以下KBS)と設立経緯が似ています。KBSも会長は近衛文麿です。ただし、KBSの資金は政府の補助金だけでなく、三菱・三井・住友という財閥からも出資されていました。

この頃のアジア系留学生(中国・満洲・モンゴルを除く)たちは基本的に私費留学なので、国際学友会の援助は、主に彼らの暮らす学生寮の寮費にあてられました。

 

さて、1941年12月真珠湾攻撃、そして太平洋戦争開戦。日本は東南アジアのほぼ全域を事実上日本の支配下に置きました。そしてこれらの南方地域および中国・満洲・朝鮮・台湾などの東アジア地域を日本の指導下におく、いわゆる「大東亜共栄圏」の構築を目指します。

こうした政情の中で考案された南方特別留学生制度とは、つまり、「日本の戦争目的を理解させ、将来日本の協力者となってアジア諸国をになう人びとを育てるという目的」(倉沢)でつくられたものでした。

南方特別留学生制度は1943年に第一期生、44年第二期生まで実施され、ジャワ・スマトラ・ビルマ・フィリピン・マレー・タイなどから、選抜試験を経て集められました。全体としては100人前後はいたようです。

 

こういう特殊な事情と目的で集められた国費留学生たちは、私費留学生たちとはまったく違う環境に置かれたようです。南方特別留学生に選ばれると、彼らは来日前に半年以上は日本語教育を受け、日本式の軍事教練や精神教育も受けます。インドネシアではもともと学校教育はオランダ式の学校しかなく、少なくとも就学できる家庭階層の学生は欧米的な思考や文化を身につけていたようですが、それを完全に日本式教育で上書きしようとしたようです。

来日後は、出身地域別の寮に入り、週に二回は兵式訓練も受けます。起床から消灯にいたるまで時間割がきびしく定められ、外出は許可制。戦前からの私費留学生との交流は、「せっかく軍隊が規律を仕込んだ南方特別留学生に悪い影響を与える」という理由で禁じられました。どうやら、ガチガチの規律と監視体制があったようです。

 

実はこれら南方諸国出身で、ある程度教育を受けた若者たちというのは、元来はかなり欧米文化から影響を受けています。自発的に日本に留学してきた『雪に集ふ』の私費留学生たちでさえ、ジェーン・オースティンの小説など英米文学を愛読していたり、彼らどうしで会話をする場合には日本語ではなく英語を話し、価値観なども自由主義的でした。こういう若者たちに、日本を欧米よりも手本とすべき上等国として認識させて日本的価値観を刷り込むことは、実際のところかなり強制的なやり方でもしない限りは、相当に困難なことだったのではないでしょうか。

 

さて、ここからは私の推測ですが、『雪に集ふ』はこの南方特別留学生制度と直接的な関係はないかもしれませんが、まったく無関係とも思われません。

何しろ映画の制作の翌年に、この制度が始まっているのです。KBSの映画と同じく、国際観光局の映画も輸出用に各国語版が製作されました。

まず、タイ・中国・マレー・タガログ・ベトナム・インド各国語版が製作されました。続いて英語・フランス語版も作る予定でした(実際に作られたかどうかは不明)。

国際観光局の観光宣伝映画は、1930年代末頃までは主に欧米人を対象としています。白人富裕層が日本で楽しむことができる観光地やレジャーを、映画で紹介することが目的です。

しかし『雪に集ふ』は、第一に日本の占領地向けだったことが、この言語選択からも分かります。この種の官製文化映画は、一般的な映画館で上映されることは稀で、在外公館や教育機関、在外支所、特別な催し物などで上映される場合がほとんどです。おそらく『雪に集ふ』は、占領地域の人々への観光案内というよりも、アジアの若者たちに日本への親近感や好奇心を喚起させ、日本への留学意欲を高めるための“教材”としても利用されたのではないでしょうか。実態は、南方特別留学生には、映画の中で描かれたような自由な雰囲気や贅沢な娯楽はほとんどなかったのですが…。

 

もちろん、“大東亜共栄圏”イデオロギーの宣伝が主目的だったのは間違いなく、国際観光協会発行の『対外宣伝の概況』(1943年12月)には、このように書かれています。

日本に勉学中の共栄圏青年学生を学業の余暇に雪山に誘ひ、スキーを通じて大東亜諸民族間の親和協力の精神を促進し、併せて日本の指導的立場を表現する意図の下に製作された明朗篇である。…(中略)最近仏印サイゴンに開催された見本市展覧会の映写場に於て本映画の安南語版が上映され絶賛を博した。

 

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『観光』の映画紹介記事からの写真。

留学生たちは、昼間はスキー三昧、夜は高級ホテルのロビーに集まり、ギターをかき鳴らしてそれぞれの国の歌を歌ったり、ダンスに興じたりします。

当時の多くの日本人にとっても、この映画は別世界だったことでしょう…。 

 

国際観光局の戦前の「観光宣伝」についてはこんなものもありました。

線路は続くよ、満洲まで…―昭和戦前期の鉄道地図と「観光日本」― - Nipponの表象

戦時下の「観光日本」:サンフランシスコ万博日本館〈婦人群像〉にみるキッチュな‟日本趣味” - Nipponの表象