Nipponの表象

昭和戦前期・戦後期の写真・デザイン・映画をテーマに書いてます

1958年の雑誌『新建築』より:‟あの頃”から20年後の山脇巌と前川國男

建築家の山脇巌は、戦前にバウハウスに留学した三人の日本人のうちの一人として知られています。同じくバウハウス留学生だった妻の山脇道子(結婚後に夫婦で留学)とともに、帰国後は日本のデザイン教育にも貢献しました。

 

山脇の戦前の仕事の一つに、戦前最後の国際博覧会であるニューヨーク万博(1939年)のカヴァードスペース(国際館日本部)の展示デザインがあります。

日本から竹や玉砂利をアメリカに持ち込んで装飾に使っていたり、和紙を利用したりとオリエンタルな雰囲気づくりで‟日本らしさ”を強調したデザインが特徴です。ややもするとキッチュな感じにもなりそうな装飾ですが、富士山を写した巨大な写真パネル(当時は「写真壁画」と呼ばれました)の展示も合わさり、当時としては斬新な展示デザインでした。

 

戦前の国際文化振興会(KBS)がタイの建国祭に出展した際にも、山脇は展示デザインを担当しています。官製博覧会と相性がいい人なのか、それとも官庁・国際機関関係者からの信頼があったのか、本職の建築設計の方は個人住宅が多い一方で博覧会展示においては国家がかりの大きなプロジェクトに縁があった人でした。

 

戦後もそういう関係性が続いていたのでしょうか、海外貿易振興会(JETRO)と国際観光協会(JTA)が参加した1958年の第二回米国世界見本市(The Second United World Trade Fair 1958)の日本部の展示をデザインしています。

 この展示、ニューヨーク万博の時と比べると‟ささやか”と言ってもいい規模ではありますが、やっぱり不思議な空間になってます。

その展示の一部が以下の写真です。

 

f:id:design-photo-film:20181126235944j:plain

『新建築』33巻5号(1958年5月)より。

 

大きな仏頭がインパクトあります。記事によれば、この仏頭は興福寺東金堂の壇下から発見された旧本尊薬師如来の頭部の複製品で、合成樹脂製です。

仏頭の後ろに書かれている文字が見えないのですが、「仏」でしょうか。

別の角度から見るとこんなふう。

 

f:id:design-photo-film:20181126235726j:plain

 

展示の主催は国際観光協会で、その目的は観光客誘致のための宣伝です。

向うに見える壁面には「JAPAN AIR LINE」の文字の下に日本とアメリカを結ぶ航空路線図。その隣には日本の観光名所の写真が並べられています。この写真からはっきり確認できるのは鎌倉大仏くらいですが。

 

そして雛人形やら鉄瓶やら扇子やら編み笠やらがポツンポツンと配置されてます。

f:id:design-photo-film:20181127155659j:plain

 

正直なところ、仏頭以外はそれほど面白くないデザインですが、玉砂利や瓦などを装飾に使っているところが、ニューヨーク万博の展示デザインにも通じて、‟山脇巌っぽさ”を感じます。

 

戦中~敗戦という激動の時期を経て戦後になっても、相変わらずこうした国家系機関の宣伝事業に携わっていたんですね。「国家宣伝活動=プロパガンダ」というほどの意識はなく、プロのデザイナーとして国家の仕事を請け負っただけという感覚だったのかもしれません。

 

展示デザインそのものも、戦前の作風とあまり変化が感じられません。そういう意味で、1930年代に既にデザイナーとしての個性が完成してしまったのかなとも思います。

 これが‟あの頃”から20年後の山脇巌の仕事。

 

ところで1958年といえば、以前、当ブログでも紹介したブリュッセル万博開催の年でもあります。

戦後最初の万博で日本が見せたかったモノ(其の1) - Nipponの表象

戦後最初の万博で日本が見せたかったモノ(其の2) - Nipponの表象

 

ブリュッセル万博の日本館を設計したのは前川國男でした。

前川が日本のパヴィリオンの設計を手がけるのは、実はこれが初めてではありません。1937年のパリ万博の日本館は、坂倉準三の設計が採用される前は、実は前川案が有力だったのです。どちらが採用されても、それまでの日本館の慣例を覆すモダニズム建築になっていたわけですが、結局のところ坂倉案が採用されました。そして坂倉の日本館のデザインはグランプリを受賞し、日本の近代建築史に輝かしい足跡を残すことになりました。

 

前川國男は、どういう気持ちだったんでしょうか…?

 

しかし戦後最初の国際博覧会であるブリュッセル万博において、前川は遂にパリ万博の仇を取り(?)日本館の設計者の地位を勝ち取ります。そしてさらに凄いのは、この前川のパヴィリオンも金賞を受賞するのです。

『新建築』33巻10号(1958年10月)の記事より。

もっとも最高の金賞といっても10位まであり、日本館は9位、1位はチェコスロバキア。しかし世紀の大博覧会といわれ参加国43ヵ国、独立建物116のうち9位は立派なもの。それも建物だけなら7200万円、あらゆる費用を入れても3億円の日本館が、160億円もかけたソビエト館をぬいて入賞したことは、日本の建築界にとってうれしいニュースだ。

 

はい、私も何だか嬉しいです(笑)。

 

ちなみに同記事には、博覧会終了後、 この建物を売って欲しいという申込みがカナダ・イタリア・オランダから来ているとの報も載っています。またアメリカからは、1961年の世界科学博にも同じ建物を出品して欲しいとの申し出もあったとか。

これは勝手な想像ですが、これでようやく前川は自身が実現できなかったパリ万博日本館のまぼろしみたいなものから解放されたのではないでしょうか。

 

‟あの頃”から20年後の前川國男の仕事でした。