NIPPONの表象

過去の記録の中から見つけた面白いものを報告します

「時代」の怖さ、面白さ:1949年の『美術手帖』から――「アトリエ訪問・猪熊弦一郎(第23号)」――

古い時代の文献資料を読む面白さの一つに、現在との「ギャップ」があります。

それは社会風俗だったり常識だったり、人々の使っている語彙や表現など様々な部分にありますが、特に顕著なものの一つとして「ジェンダー」意識があげられます。

 

ここで取り上げる『美術手帖』は何しろ80年ほど前に出版されたものなので、やはり大きなギャップがみられます。

それはその時代の影響下にあるがゆえでもあるので、現在の価値観であれこれ言うのも野暮というものですが…批判の対象としてではなく、時代の証言の一つとして見ると興味深いものがあります。

 

このアトリエ訪問記の訪問者は辰野隆、写真は土門拳が担当しています。実際には対談形式で、記事を執筆したのは同行した編集者ではないかと思われます。最初は辰野と編集者らしき人物とのやりとりなども描写されますが、すぐに記事は辰野と猪熊の対談になります。

 

この対談が、面白いのですね~。80年前の日本社会ってこういう感覚なんだなあ、とあらためて思います。

 

アトリエ訪問というからには猪熊の創作話が中心になるかと思いきや、辰野が猪熊より年長のせいか、辰野が話をリードして自分語りも多くなっていきます。偉い先生をインタビュアーにするとこうなりがちですね。

対談内容のすべてをここに記載するわけにはいかないので、小見出しを並べておきます。

 

「このごろ」

「『熊の会』のこと」

「モデル・奥さんのこと」

「生理と女流画家」

「フランスの画家」

「荻須、中西、パリ」

 

勘の良い人なら上記の小見出しで既にピンとくるでしょう。

「生理と女流画家」!

猪熊がずっと自分の妻をモデルに使っていることが話題に上った後、話はふいに彫刻家の藤川勇造のことになります。藤川は既に亡くなっていて(昭和10年)、ここでは回想として語られます。藤川の妻は洋画家の藤川栄子で、この芸術家夫婦の一風変わった暮しぶりが二人の話題の俎上に載せられます。

 

Ⅰ(註・猪熊) 僕は藤川さんと同郷でよく存じて居りますが、御夫婦で面白い生活をして居りました。二人とも飯を炊かないで、天丼をとったり風変りに暮しでした。

 

T(辰野) うちの次男が藤川夫人のところへ時々、お邪魔に行っているんです。(中略)藤川さんが二科会では紅一点だそうだが、紅一点が皺だらけなら、梅干だろう。ピクニックのおむすびの中に入れるといいねって僕が云ったら、又子供がそれを一々藤川さんに言うんですよ。すると藤川さんが、何だ人のことを何とか言ったって、自分はモモンガアみたいな親父のくせにって、両方で悪口を言って面白がっているんですよ。

 

あまりにも率直な話ぶり、、、そういえば昭和の頃は「梅干ババア」なんて悪口もあったな。とはいえ、上記の辰野の話はまだ気の置けない(口の悪い人間同士の)友人間の軽口の範囲と言えなくもないでしょう。お互いに言い合ってるのでお互いさまと言う気もします。現在の基準なら、活字にするのはアウトでしょうが。

 

しかし次の「しゃべくり」はさすがにマズイ…  現在の基準なら、ですが。

 

T あれでも思うように絵が描けないとヒステリイを起すんですってね。やっぱり芸術家ですね。笠置シズ子のフイナアレみたいな声を出して泣くのか知らん。これ、藤川さんには内緒ですよ。

 

I 女はヒステリイの時や病気のときによい絵を描くんですね。(笑)

 

 

「これ、内緒ですよ」って活字になってるやん…。それはさておき、「女=ヒステリー気質」説が常識化していた時代の雰囲気が想像つきます。

別段、この二人が特別に女性に偏見を持っていたというわけでもおそらくないでしょう。ただ、それが「あたりまえの常識」だっただけーー。

怖いのは、こうして活字になったことで後世に残ってしまったことですね。まあ私がこうして゛発掘“しなければこのまま埋もれていってたはずなので、余計なことしてるのかもしれないですが。

 

だからといって、こういう記事にフタをしてしまうのも勿体ない。理由は、こういう時代の空気みたいなものを知っていることで、前にとりあげた小川孝子の日記など同時代の女性画家たちの立場や気持ちがより理解できるような気がするからです。

 

その意味では、昔の雑誌記事のほうが概して率直な内容のものが多いので、参考になることが多い。現代に近づくほど、当たり障りのないものになっていくような気もするのです。

文章で教える絵画術:1949年の『美術手帖』から――近代絵画の構図、絵具の生かし方について(第21号)――

この頃の『美術手帖』が、初心者からプロ志願者までの幅広い読者に対する‟ハウツー本”の役割を果たしていたことを先の投稿で書きましたが、そうした記事の執筆者に、画壇の重鎮といってもいい著名画家たちも名を連ねています。

有名画家が直々に創作の秘訣を教えてくれるわけですから、人気記事だったことでしょう。そして意外にも、というと失礼かもしれませんが、それらの記事は論理的・具体的な内容が多いのです。

 

黒田重太郎の「近代絵画の構図」は、モネ、ドガゴーギャンなどの作品を例にあげて画面構成の比率を見たり、垂直線・水平線・対角線など細かく分割して検証するなど、出来るだけ理論的に構図を分析しようとしています。

感覚的な言葉で説明するのではなく、客観的な言葉で説明しようとしているのが窺えます。といっても、この記事が絵画学習者にどれほど実用的であったかどうかは、正直分かりませんが…。

 

この記事ページをめくると次に現れるのが石井柏亭「絵具の生かし方について」です。

「素人や初学者は、上へ上へと塗り重ねられるために油画の技法が水画のに比べて樂であるように考えがちであるが、それはとんでもない間違いである」という一文が始まり、もしかしたら油絵なら自分でも描けるかも…などと考えてる初心者の甘い考えをいきなり打ちのめします。プロの厳しさですね。

 

素人や初学者は、上へ上へと塗り重ねられるために油画の技法が水画のに比べて樂であるように考えがちであるが、それはとんでもない間違いである。寧ろ其逆に上へ塗り重ねるところに面倒が起ると思わねばならぬ。

油画は大体に於て一気に一遍描きにした場合絵具が生かされるということは動かせない。すなわち乾かないうちに仕事するか、よく乾かした上に絵具を重ねるかしたのがよく、其中間半乾きの上に絵具を重ねるのが一番悪いと云うことになる。

 

具体的で分かりやすい説明です。この後、さらに具体的に自分自身がやっている方法を細かく説明しています。純粋に技法的な話が中心なので、読者が特に石井柏亭の作品のファンでなくとも、参考にできそうです。

 

石井の記事の次には「絵具の生かし方についての質問」と題して、山下新太郎と脇田和に、それぞれ八項目の同じ質問をして、彼らが文章で回答を寄せています。

 

1 絵具はまずく混ぜるとすぐ濁るが、絵具のもつ、個々の性格を生かすにはどうしたらよいか。

2 薄く塗る場合、厚く塗る場合。

3 溶き油はどう利用したら油絵具の特性を生かすことができるか。

4 色を生かす為に、地塗はどんな関係をもつか。

5 絵具の光輝性、強さ、を生かすにはどんな方法があるか。

6 つや消しの色の場合の方法。

7 純白と白色との関係。

8 ブラックの特質…等々。

 

 

質問自体がかなり専門的に思えます。絵でも描いてみるか…という初心者ではなく、既にそれなりに描いてきた人に向けた内容にみえます。

この質問に対し、二人の画家もかなり詳しく回答していて、技法の説明としては読みごたえがあります。

 

こうした記事がそれなりの頻度で掲載されていることから、つまり、この頃の『美術手帖』の読者とは自分自身が絵画を制作している人たちが多く、彼らが技法や美術的知識を求めてこの雑誌を購入していたのではないか、と推測できます。

現代の『美術手帖』の読者は美大の学生などが多そうなイメージですが、この頃はどうなのかーーー。何しろ多くの日本人が食べていくことに精一杯であった時代なので、なかなか読者層が具体的イメージとして浮かびにくいところがあります。

 

画家たちも困窮していた人は多かったんじゃないでしょうか。裕福なイメージの吉原治良でもポスターや雑誌の表紙など描いて当座をしのいでいたようですし。

 

社会に余裕がない時代は、世間は芸術・文化を「役に立たない」と切り捨てがちです。そういう時代にこの雑誌が、美術家たちの精神的な支えになっていたことは確かでしょう。

1949年の『美術手帖』から――藤田嗣治氏、ニューヨークへ発つ(第16号)——

藤田嗣治が戦時中、戦争画を描いたことはよく知られています。また藤田が国際文化振興会とつながりが深かったことも知られています。そうした意味では、戦時中は国家機関と協調関係にあった芸術家です。

そのため、戦後藤田は批判され、日本の美術界からもハブられた(?)という話を以前チラッと何かで読んだことがあり、おそらく失意と日本美術界に対する失望とともにヨーロッパに帰っていったのだろう――と勝手に想像していました。

 

ところが、少なくとも1949年の『美術手帖』(16号)を見る限り、そんなことではなかったようです。

 

藤田嗣治氏、ニューヨークへ発つ」

昨年来渡仏説や渡米説などいろいろな噂の中にあって、板橋小竹町のアトリエからも姿を消してしまい、各新聞社が躍気(ママ)になってさがしても遂に所在不明のまゝであった藤田嗣治氏は突如三月十日夜七時二十分羽田飛行場からパンアメリカン航空会社の旅客機で一路ニューヨークを目指して出発した。

 

この記事には、飛行機に乗りこむタラップに立っていると思しき藤田が、満面の笑顔で帽子を持つ手を見送りの人々に振っている瞬間を捉えた写真が添えられています。

 

藤田氏は戦後アメリカへ渡航を許可された最初の芸術家であり、また無期限居住を許可された最初の日本人である。渡米後はニューヨークのブルックリン美術学校その他の講師をしながら制作に励むというし、パリへも学校の夏休みを利用して出掛けるという。

 

戦時中の活動はどうやら問題になっていなかったようです。というより、むしろ藤田は特別扱いです。写真の藤田が意気揚々と見えるはずです。

インタビューでのコメントからも意気軒高な様子が窺えます。

 

「日本は画家に対して絵を描く以外のいろんなうるさい註文をつけるんでやり切れないよ。(中略)下らないことでいがみ合わずに、皆んな仲良くしっかりやってもらいたい。僕は世界的な舞台で勉強したいと思って、アメリカへ渡るために随分努力したよ。からだの弱い人間、意志薄弱な人間は結局行かれないよ。僕は皆んなが僕に続いてやって来るのを入口に立って待っていると申し上げたい。

 

かなりの上から目線です。

私が読んだ情報は何だったのか――・・・私が勘違いしていたのかもしれません。こうやって過去の雑誌や新聞を自分で調べることは大切ですね。

 

試合に負けて、勝負に勝つ。結局、藤田は勝ち組でした。

1949年の『美術手帖』から―舞台装置の出来上がるまで(第14号)—

作り方を知りたい。プロのやり方を知りたい――

こう思った時、現代ならとりあえずまずPCもしくはスマホで検索、となります。

インターネットが普及する前は、本を探すことから始めました。いわゆる「ハウツー本」というものがあり、初心者の入口になる内容のものが多いでしょう。

 

1949年はまだハウツー本が登場するほど出版状況はよくなかったでしょうが、そういう時代であっても「どうやって作るのか知りたい」というニーズはあったようです。当時の『美術手帖』の記事には、そうした素人以上プロ未満の読者に向けたものと思われる「ハウツー記事」がちらほら載っています。

例えば第14号と15号に荒谷直之介「水彩と人物画」という記事があります。タイトル通り水彩で人物画を描くにあたっての方法を、構図の取り方からモデルのポーズ、デッサンの仕方、色の塗り方など丁寧に解説しています。

これは一例であって、細かく見ていくと「ハウツー」的な記事はいろいろあります。「油絵をはじめる方へ――どんな色を揃えたらよいか?」(第20号)という記事は編集部によるものですが、絵の具の色の配合まで解説しています。

 

こうした記事から、当時の『美術手帖』の読者には美術愛好家だけでなく、実際に絵を描きたい人、あるいは描いている人がそれなりに多くいたことが推測されます。

 

しかしさすがに舞台装置の作り方の解説記事があるとは想定外でした。

 

伊藤喜朔の「舞台装置の出来上るまで」は「ハウツー」というほど初心者向けの内容ではありませんが、4頁ほどの記事の中に舞台写真や平面図などもあり、舞台装置家の心構えや演出との兼ね合い、設計の方法論など、充実しています。

伊藤喜朔は築地小劇場の舞台を手掛けたりと戦前から活躍し、舞台美術の先駆者と呼ばれる第一人者なので、この記事も後進向けのものかもしれません。

 

目に留まったのは、寸法図について日本家屋と洋風家屋の場合の違いについて言及しているところです。

寸法図は日本ではあまり描かないが道具製作の正確を期する為にはぜひ必要である。(中略)日本家屋は寸法の割合が定ったもので、あらためて寸法図もいらないがそれでも地方的特色のあるものや写実的でない場合は入用である。洋風家屋は寸法が自由であるから寸法図がいる。

 

短い文章ですが、戦前生まれの日本人にあった日本家屋や日本の生活習慣についての常識を感じさせます。現在では「日本家屋」そのものが大きく変貌しているので、日本家屋といっても私たちが思い浮かべるイメージがそもそもバラバラ。戦前の日本家屋と戦後の高度成長期以降の一般的な住宅は、もはや別物といってもいいかもしれません。

 

こういう戦前日本の知識は、現在の舞台装置家にも受け継がれているのでしょうか。

舞台装置の制作には、造形美術の知識よりも演劇の知識のほうが重要であるとも述べてます。

 

舞台装置は絵画的であったり装飾的であったり彫刻的であったりすることより、まず演劇的であることが大事なことである。

 

こういう本質的なことを話してくれる先達が自分にもいたら――などと思わずにはいられませんが、その意味でも当時の『美術手帖』はプロの名言を雑誌で読むことができる手軽なハウツー本でもあったのでしょう。

当時の物価はざっくり言って現在の100~150分の1程度らしいので、1冊50円という定価は現在の5000~7500円ということになり、そうなると〝お手軽な値段”とは言えませんが…。

(ネットで調べたところ1946年の公立小学校教員の初任給が300~500円とのこと)

1949年の『美術手帖』から―20代・日記五題(第20号)—

1949年の『美術手帖』を見ると、多くの画家たちが執筆していることに気がつきます。現在の『美術手帖』と比べると、画家の執筆記事で誌面の多くが埋まっているというのは、やはりこの時代の特徴ではないかと思われます。

それだけ、現在は美術専門のライターや研究者など、書き手が充実しているといえるのかもしれません。あるいは、1949年当時の『美術手帖』と現在の『美術手帖』では編集のコンセプトが異なるのかもしれません。

そのあたりの理由や変遷は、これから歴代の『美術手帖』を見ていくうちに追々わかってくるでしょう。幸い手元に数十年分の『美術手帖』がありますので、通時的に内容を追っていこうと思います。

 

1949年8月発行の『美術手帖』20号には、複数の当代きっての画家による「20代」と題した記事があります。執筆者は東郷青児、加山四郎、猪熊弦一郎、小泉清、伊藤廉で、内容は各々が20代の頃の思い出を綴っています。人によって文章量が異なり、短いものは半頁ほど、長いものは二頁程度。

この20号にはもう一つ興味深い記事があって、「日記五題」というタイトルで、こちらは東山紗智子、田中君子、仲田菊代、小川孝子、桂ユキ子の女性画家ばかりです。

こちらの記事は、タイトル通り各々の画家としての日常や思うところなどを「△月△日」と日記風に綴っています。

 

こういう記事構成が、まず面白い。どちらも五人ずつなので、対になっているとみることもできます。男性画家たちが、若さと貧しさの中で苦闘した20代を回顧した内容であるのに対して、女性画家たちは女性の画家として生きる現在を綴っています。

 

それぞれから面白かった記事をひとつずつピックアップするならば、「20代」特集のほうでは断然、猪熊弦一郎の「スヰートポテート」です。字数も他の画家よりも多い。内容は、絵の具でカチコチになった学生を身に着けていた貧しい若き頃、同じく貧しく世間知らずだった級友たちと銀座の風月に「スヰートポテート」を食べに繰り出した話です。誰かが言いだした思い付きですが、実はその場の誰も「スヰートポテート」なるものの実物を知らず、「一体どんな素晴らしい料理であろうか」と期待に胸をワクワクさせて待っていると…、という〝オチ”のある話です。

 

やがてボーイがうやうやしく運んできて私の前に置いた一皿の待望の料理?に目を落した瞬間、私は思わず声をだした。

「何だ!イモじゃないか!」

何と時代を知らぬ可憐さよ。

たわいもない、展開が見えている内容ですが、飄々とした文章でそこはかとないユーモアがにじみ出ています。美術的知識の乏しい私は猪熊弦一郎というと猫の絵くらいしか思いつかないのですが、あの猫の絵に人柄が重なります。

 

「日記五題」のほうは、現在進行形であるせいかもっと生々しい精神的葛藤が行間に浮かび上がります。小川孝子の「日記」の一部から抜粋するとーー。

 

突然、見知らぬ青年来訪、村井先生のアトリエを拝見したいと言う。よく聞くと村井は知って居る、しかし主人は留守、折角だったので上って見てもらう。仕方がない私は仕事を続けて居ると「おばさまもお描きになるんですか」さも驚いて云う、近代の青年である、腹が立つ、「大作ですね」私のF五〇を見て居る。「そうでもないわ」「僕まだスケッチ版より描いたことないんです」と言う、私は怒るのを止めた。馬鹿々々しくなって来た。

どうですか?私には彼女の気持ちがよくわかります。

五人の女性画家たちは各々の迷いや悩みをかなり率直に吐露していて読み応えがあります。こういう記事があると、彼女たちの存在がぐっと身近に感じられますね。

おそらく現代では、こうした率直で生々しい文章は『美術手帖』のような教養雑誌ではなく、TwitterやブログなどSNSの中にあるのでしょう。

 

1949年の『美術手帖』から――私の巴里、思い出の巴里(第13号)――

ざっくりとした言い方になりますが、日本人にとってフランス・パリは戦前戦後を通してながらく「憧れの地」であったことは確かです。

文化・芸術はもとより、ファッションなど「お洒落」なものはパリにあり、渡欧できる機会に恵まれた数少ない人々が現地から持ち帰る様々な書物や品物・習慣・知識は、とても貴重なものとして価値づけられてきました。

そういう時代が戦後も30年くらいは続いていたと思うのですが、海外旅行が庶民にとって身近になるに従い、次第に「憧れの地」から「外国のひとつ」へとその位置づけが急落していったようです。

もしかしたら遠目にみれば美しく見えていたものが、近づいて見ればそれほどでもなかったという感覚を人々に与えたのかもしれません。

 

ともかく、まだ戦後の混乱が続いていたであろう1949年1月発行の『美術手帖』では、当時の美術人たちの「巴里への憧れ」が誌面を埋めていました。

この13号は、「巴里特集」です。

口絵がピカソマチス、ブラックなど。本文の目次から記事のタイトルを一部抜粋したのが以下のものです。

 

パリの展覧会  伊原宇三郎

梅原龍三郎渡欧雑談  増田義信

私の巴里  高田保

仏蘭西食味  中村研一

安井先生の時分と僕の自分  伊藤廉

パリの国立美術学校  関口俊吾

思い出の巴里

オペラ座  大森啓助

パリのフォワァル  蘆原英了

巴里のバクチ場  宮田重雄

パリのキャフェ  Q  Q

・・・

記事の間にはモンマルトルなどパリの町や風俗を写した写真が、

豊富に挿入されています。

・・・

ロルヌ街のアトリエ生活  中山巍

巴里祭  高野りう

競馬の魅力  石見爲雄

自転車競走  石見爲雄

知識人の家  末松正樹

巴里の思い出  野口彌太郎

楠目とペーラシェーズ  高畠達四郎

巴里の古本あさり  田近憲三

スューランデパンダン  岡本太郎

巴里の競売のはなし  福島繁太郎

 

編集後記を読むと、「やっと御約束の『巴里特集』を御届けします」とあり、このパリ特集号が読者から待ち望まれていたことがわかります。

美術手帖』の当時の読者とは、如何なる人たちなのでしょうか。

 

ヒントは翌月の号(14号)の編集後記にありました。

 

十二月十五日付の読書新聞で見ると、九月―十一月の統計によれば新宿紀伊國屋に於ける本誌の売行きは一ヵ月四〇〇部で雑誌中最高位を示しています。インテリ客が多いので特に美術、音楽、演劇誌が売れると註がしてありますが、文芸誌、婦人雑誌より数が多いと云うことは驚異に値することでしょう。

 

「新宿紀伊國屋」といういかにも都会のインテリ層が客の多くを占めているであろう書店での売行きなので、これをもってして当時の文化的風潮を論じることはできませんが、やはりこの時代は「文化的なもの」に対する人々の飢餓感みたいなものが強烈だったのでしょう。

また、婦人向けの服飾雑誌などを郊外や地方に業者が直接販売しに行くと、やはり現地の女性たちに飛ぶように売れていったという話を聞いたことがあります。

 

美術手帖』の編集後記はこの現象を、「これは世間一般人の美術についての関心が深まったと見るより仕方があるまい」とポジティブな見方をしていますが、その見方が正しいかどうかは、現在の日本社会に答えがあるはずです。

 

ともあれ、現代に生きる私たちは多くの現実を知っているぶん、「異国」に夢を見ることがなくなりましたね。

 

戦時下の「原節子」という表象:写真壁画《東洋は招く》(1940年)が意味するもの

戦前に開催されたニューヨーク万博は、敷地面積及び出資金は1933年のシカゴ万博の約3倍であり、アミューズメント・エリアの広さは1937年のパリ万博を凌ぐ、戦前の万博としては最大規模のものでした。

1939年の4月30日から10月31日まで開催された後、一部展示替えをして翌年にも、5月11日から10月27日まで開催されました。

 

その際に日本は、独立したパヴィリオンである日本館のほかに、国際館(カヴァードスペース)の方にもスペースを借りて、日本に関する展示を行っています。

この国際館日本部での展示の主役といっていいのが、当時「写真壁画」と呼ばれた大型の写真パネルの展示でした。バウハウスに留学経験のある建築家・山脇巌がその写真構成を担当したことがよく知られています。

 

山脇が構成した写真壁画のひとつに、原節子の顔がドーンとクロースアップになった《東洋は招く》という作品があり、今回はその件について書いてみたいと思います。

 

《東洋は招く》は、1940年に展示内容を一新した際に出品されたものです。原節子の顔の巨大なクロースアップの切り抜き写真が、襖紙の下地に浮き出しで貼り付けられました 。国際観光局が出品したもので、撮影者は名取洋之助と推測されています*1。 

 

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(『アサヒグラフ』第35巻第4号、昭和15年7月24日号

「紐育万國博 日本館の魅力」より)

 

この写真壁画は、会場内での観客の動線を考えて、「人寄せの手段として巨大なポスター風」に構成し、設置したと山脇自身が説明しています。国際館日本部に立ち寄った来場者は、会場内から出ていこうとするときに、初めてこの写真壁画を目にすることになります。原節子の謎めいた微笑みが、日本への旅に誘いかけているようにも見えます。

 

1930年代の原節子のキャリアといえば、日本映画史に詳しい方々はすぐあの映画を思い出されることでしょう。

そうです、アーノルド・ファンクと伊丹万作の共同監督(と名目上はなっている)による日独合作映画『新しき土』(1937年)です*2

 

原節子は『新しき土』にヒロインとして起用され、一躍、新進の若手女優としてスターになりました。この映画とタイアップした《森永ミルクチョコレート》(1937年)のポスターも、日本広告史では有名なものです。当時まだ17歳だった原の爽やかで可憐なイメージを利用して、若者向けのモダンな商品としてのミルクチョコレートをアピールしています 。

 

原節子といえば、今日では小津安二郎監督の『東京物語』など、戦後の日本映画の黄金期に数々の巨匠の映画に出演し、「控え目だけれども芯の強い日本女性」を演じた大女優のイメージが出来上っています。そんな原が、戦時下に、極めて政治的な意味を持つこの『新しき土』に出演したことは、戦後、隠されることはないにしても、あまり大きく語られることはありませんでした。今日では、この映画は、「ナチスドイツの肝煎りで、日独防共協定を見越して作られた作品」*3と明確に認識されており、ナチスのゲッペルスがドイツでの公開を支援したことでも知られています*4

 

今回は、《東洋は招く》のモデルがなぜ原節子だったのか、という点について考えてみます。

というのは、この写真のモデルは単に若い美人女優であれば誰でも良かったというわけではなく、原である必然性があったからでした。

 

原がこの写真壁画のモデルに選ばれたことは、映画『新しき土』との関連を抜きに考えることはできません。同作は日本国内だけでなく、ヨーロッパを中心に世界各国で公開されました。ドイツ語版では『サムライの娘(Die Tochter des Samurai)』というタイトルで公開されました。

 

ニューヨーク万博の写真壁画《東洋は招く》の「プロパガンダ」としての意味を理解するうえでは、戦後の『東京物語』の原節子のイメージよりも、『新しき土』において確立された原節子のイメージこそが、重要なものとなってきます。 

 

 

『新しき土』が、当時の日本人にとってどのような意味を持つ映画であったかということについて、映画評論家の佐藤忠男が次のように説明しています。

この映画はあくまでドイツ人が日本をどう描くかというところに人々の関心が集まるものなので、伊丹の役割りは補佐的なものである。しかし伊丹は製作のあいだノイローゼになりそうなくらい悩んだようである。(中略)ファンクとしてはしかし‟東洋の神秘”こそが興味のあるところで、そこで日本人の常識に妥協する気はなかったようだ。(中略)

以上のような経過で、日本を描いた映画としてはかなり奇妙なところのある作品になった。しかしそれを承知のうえで日本人はこれを受け容れ、興行的に大成功であった。西洋人が日本の美しさに感動し賞讃している映画であることが日本人として嬉しかったということであると思う。とくに主役に起用された原節子が、日本女性の美しさ純真さを代表して世界に紹介されるということへの期待が大きかった。その期待の大きさは、この映画のベルリン公開に立ち会うために彼女が東京駅を出発したとき、東京駅はじまって以来と言われる大群衆が集まったと伝えられることで明らかである。

(佐藤忠男「『新しき土』の伝説」『「新しき土」劇場パンフレット』2012年4月24日発行、編集・高崎俊夫、青木眞弥 発行・キネマ旬報社)

 

そして佐藤は、『新しき土』の原節子について、次のように評価しています。

作る側も見る側も日本人がこの映画にいちばん期待したのは西洋人が日本を好意的に描いてくれることだけだった。その点、善意の誤解のような表現がいろいろあった。しかしそれらを全て大目に見てもなお余りあるものがあった。それは原節子をヒロインの光子に起用し、西洋の伝統文化の貴婦人の位置に置いたことである。(中略)西洋の名監督が主役に抜擢して、しかも‟フジヤマ、ゲイシャ”の芸者の媚態とは真逆の、西洋の騎士道物語の貴婦人に相当する精神性の権化のような位置を与えたのだ。原節子は見事にそれにふさわしい輝きを見せた。

 

映画批評家の白井佳夫は、女優としての原節子の特徴を次のように述べています。

『新しき土』以後の原節子は、伊丹万作監督が『レ・ミゼラブル』を翻案した映画『巨人伝』(1938)で、コゼットにあたる千代の役を演じたり、山本薩夫監督がアンドレ・ジッドの小説を翻案した映画『田園交響楽』(1938)で、盲目のヒロインの役を演じたりもしている。むしろ原節子はヨーロッパ風の美女を日本化して演じる映画の主役に、もっぱら登用される女優でもあったのである。

(白井佳夫「なぜ原節子だけが永遠なのか」新潮ムック『

新潮45特別編集 原節子のすべて』、新潮社、2012年)

 

原節子は日本人としては彫りの深い顔立ちで、しばしばハーフと間違われることもありました。西洋風の顔立ちは、佐藤が言うところの「西洋の貴婦人」にも通じる精神性を感じさせる一方、彼女の控え目で物静かな態度は、日本の大衆が求める「大和撫子」のイメージにも合うものでした。

 

原節子が、当時、他の女優たちとは一線を画す存在であった点について、ジャーナリストの石井妙子もまた次のように強調しています。

この『新しき土』への出演は、原節子を、「新進の若手女優」から、「西洋人の巨匠に見出された日本を代表する大女優へと、一挙に押し上げた。(中略)一般に、渡欧など夢のまた夢であった時代であり、また西洋へのコンプレックスと憧れは日本人に強かった。そんな中で、彼女は西洋人に見出され、渡欧を果たしたのである。それは「日本女性の鑑」という看板を、あまりにも早くから背負わされた、ということでもあった。

(石井妙子「評伝 原節子 「永遠の処女」の悲しき真実」新潮ムック『新潮45特別編集 原節子のすべて』、新潮社、2012年)

 

『新しき土』は、ナチスドイツとの関係性ゆえにアメリカでの公開は一部をカットするなど不完全なものとなったので、アメリカではさして話題にならなかったと推測されます。したがって、原の知名度がアメリカで高かったとは思われません。

しかし、当時、国際的な日本の女優といえば原を置いてほかはおらず、また原は『新しき土』のヒロインの役柄を通して、「西洋の騎士道物語の貴婦人に相当する精神性」を持つ「日本女性の鑑」として日本の大衆に認識され支持されていた女優でした。そのことが、ニューヨーク万博国際館日本部の、文字通り‟顔“である写真壁画のモデルに選ばれた、主たる理由であったのではないでしょうか。

 

*1:川畑直道「写真壁画の時代 ――パリ万国博とニューヨーク万国博国際館日本部を中心に」五十殿利治編『「帝国」と美術 一九三〇年代日本の対外美術戦略』、国書刊行会、2010年

*2:『新しき土』(1937年):監督・アーノルド・ファンク、伊丹万作。出演・小杉勇、原節子、早川雪舟。
製作・東和商事映画部(後に東宝東和株式会社)、J.O.スタジオ(後に東宝映画京都撮影所)

『新しき土』のストーリーは、欧州留学を終え恋人のドイツ人女性と帰国した日本人の青年が、原節子演じる許婚の女性との間で悩むというもので、そこに西洋文化と日本の慣習とのギャップに悩む姿も重ねあわされている。最終的に、青年は許婚の日本女性と結婚することにし、二人で新しい土地に向かう。この新しい土地とは満洲であることが遠まわしに示唆されて終わる。

*3:石井妙子「評伝 原節子 「永遠の処女」の悲しき真実」新潮ムック『新潮45特別編集 原節子のすべて』、新潮社、2012年

*4:佐藤忠男「『新しき土』の伝説」『「新しき土」劇場パンフレット』2012年4月24日発行、編集・高崎俊夫、青木眞弥、発行・キネマ旬報社

まぼろしの映画:国際文化振興会製作『産業日本』(1941年)

この映画は‟まぼろし”ではないかもしれません。

 

国際文化振興会(以下KBS)は1939年以降、アジア(主に日本の占領・植民)向けに映画を製作するようになりました。

まぼろしの映画:国際文化振興会製作『興亜三部曲』(1939年) - Nipponの表象

まぼろしの映画:『日本華僑生活之状況』(1940年) - Nipponの表象

 

残念なことに、こうしたアジアの観客に見せるために作られた映画は現存するのかどうかも分からず、今のところ雑誌など文献資料から内容を確認するしかないようです。KBSが1940年代に作った映画としては、以前、当ブログで紹介した『銃後の体育』(1943年)が現在観ることができますが、こちらの映画の場合は逆に文献資料に情報がないので、製作事情など詳細がわかりません。

プロパガンダ映画に描かれた「学校生活」(其の1):国際文化振興会製作『日本の小学校生活』(1937年) - Nipponの表象

プロパガンダ映画に描かれた「学校生活」(其の2):板垣鷹穂企画・飯田心美監督『小学校』(1937年) - Nipponの表象

プロバガンダ映画に描かれた「学校生活」(其の3):国際文化振興会製作『銃後の体育』(1943年) - Nipponの表象

 

 そんななか、今回紹介する『産業日本』(1941年)は、国立映画アーカイブに同タイトルのフィルムがあります。

 

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『国際文化』第14号より(以下同じ)。

 

国立映画アーカイブの所蔵する映画を観る方法は、二つあります。一つは、同館が一般観客向けに企画する上映会で観る方法。これは上映スケジュールの中に観たい映画が入っていれば、最も簡単な方法です。当日、行って鑑賞料金を払えばいいだけなので。

しかし、超マイナーな映画や鑑賞したい人がごく少ないと予想される映画の場合は、その作品が企画に入ること自体がありません。その場合は、第二の方法があります。特別上映を申請するというものです。

 

この「特別上映」が、とってもハードルが高いのですね。

特別上映を申請する際には、申請者が所属する組織のトップの方の印鑑が押された書類が必要です。大学なら学長、研究所なら所長でしょうか。これがフリーランス研究者には、越えられない大きな壁です。

したがって、今回の映画はフィルムはあるようですが、またしても文献資料からの紹介となります。

 

映画は「重工業篇」「軽工業篇」「技能篇」「労働生活篇」の4篇が企画・構想されました。『国際文化』第14号(1941年6月)には、このうち「重工業篇」と「労働生活篇」が完成したことが報告されています。国立映画アーカイブに所蔵されているのはまさにこの2篇です。「軽工業篇」「技能篇」が完成したのかどうかは分かりません。

 

『国際文化』第14号では、「重工業篇」と「労働生活篇」の簡単な内容紹介記事とスチール写真が掲載されています。

その記事によれば、映画の内容は以下のようなものでした。

 

「重工業篇」:撮影カメラマン・吉野馨治(東宝)、音楽・早坂文雄

日本の高度に発達した産業科学施設・豊饒な生産力・充実した資源と労働力の三つの面から、重工業の全貌を表現。これまで映画化されたことのない製鉄・飛行機・自動車・造船・機関車・兵器・タービン・電気機・電気工作機械などの業界に取材し、力強い生産力を見せる。

 

「労働生活篇」:撮影カメラマン・井上莞(芸術映画社)、音楽・伊藤宣二

労働施設と労働者の生活に着目して、日本の労働力の優秀さと豊富さを見せる。少年養成工・女工・青年工・熟練工がそれぞれの職場で働く姿と、余裕のある働きやすい生活環境を見せ、日本の労働・文化生活の向上と発展を示している。

 

何となく想像がつきますか?…いや、情報が少なすぎますね。

スチール写真を見ると少しイメージが湧きます。「重工業篇」は、工場などの生産現場を撮影したものらしく、機械(モノ)を中心にしたダイナミックな構図がなかなか迫力あります。

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これは自動車工場でしょうか。

 

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製鉄所や造船所の具体的な名称はこの記事からは分かりませんが、おそらく『興亜三部曲』の「興亜序曲篇」に登場したのと同じ八幡製鉄所川崎造船所だったのではないかと推測します。

 

 一方、「労働生活篇」のほうは、働く人々の勤務中の姿と休憩時間の姿を対比的に見せているようです。

 

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勤務中の女工さん。

 

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スポーツで健康増進。

 

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働く熟練工。

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ピアノ式アコーディオンが懐かしい雰囲気。音楽活動で気分一新。

 

こうして写真だけ見ると面白そうな映画に思えますが、これらの写真は当時、K.B.S.PHOTOという国際文化振興会の写真ライブラリーのカメラマンだった土門拳、山川益男、杉川吉良、若松不二夫、木村伊兵衛が撮影したものです。

だから画面構成がいいんですね。

 

実際の映画の場合は、また印象が違うかもしれません。

 

さて、最後に、この映画は何を目的に作られたのかという点に言及しておきたいと思います。記事には以下のように書かれています。

 

この映画は東亜共栄圏の盟主として名実共に備はる日本を、産業方面から圏内諸国に紹介しようと云ふ目的で、企画されたもので、日本産業の全貌を示すと同時に、その特異性を表現し、我国の産業的威力を示したものである。 

 

この映画は、内閣情報局の後援を得て作られました。

機密保持が求められる戦時下で、あえて航空機や機関車、船などの製造工程の一部を見せたり、製鉄所や造船所、鋳物工場等の内部を撮影することを当局が許可したのも、日本がアジアで最も近代化が進んでいる国であることをアピールするためでした。加えて、労働環境の良さもアピールすることで、日本に対する好印象も引き出したいという計算がうかがえます。

 

よくよく考えれば、この映画に登場するのはいわゆる当時の先端企業・大企業の労働者ばかりで、当時の日本においてはかなり恵まれた立場の労働者といえます。

まったくの虚構というわけではないけれど、日本の労働者のうちのごく一部の姿だったといえるでしょう。

 

まぼろしの映画:国際文化振興会製作『日本華僑生活之状況』(1940年)

国際文化振興会(以下KBS)が、アジアに対する宣伝工作に路線変更してから製作した映画には、現在からみて興味深い作品がいくつもあります。

しかし残念なことにそれらはフィルムの現存が確認できないものが多く、今となっては文献資料からのわずかな情報を頼りに推測するしかありません。

まぼろしの映画:国際文化振興会製作『興亜三部曲』(1939年) - Nipponの表象

そこで今回も、そんな‟まぼろし”の一本を紹介します。『日本華僑生活之状況』(1940年)です。

 

 この映画については、KBSの機関誌『国際文化』第10号(1940年8月)に紹介記事とスチール写真が掲載されています。

映画の内容はタイトル通り、日本に長年居住する中国人たちの生活や中華街の様子を撮影したものです。

 

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『国際文化』第10号より。
 

この映画の撮影場所は横浜の中華街です。ある日の朝から夜までの一日という設定で、中華街に暮らす人々の日常や、そこを訪れる日本人との交流、周囲の日本社会との融和を示す様々な場面を織り込んでいます。

 

誌面に掲載された写真とキャプションから、映画の構成内容を以下に再現してみます。(カギ括弧内はキャプションの引用)

 

1.朝の中華街の風景

「朝の支那街の一画、中華アパートの下で日本娘が、『明さん、買物に行かない?』」

2.朝市の場面

「何処の支那街も同じ、此処でも朝市は賑ふ」

3.小学校の校庭で整然と体操をする子供たち

「中華公立学校――整然と並んで建国体操をする児童達」

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4.校庭を笑顔で走り回って遊んでいる子供たち

「次の時代を引受ける少年少女達の楽しさうな元気な姿」

5.中華会館の建物

「中華会館――街の中央にあって僑民の思想や生活の指導者となり世話役となってゐる」

6.中華街のあちらこちらの通りと様々な店の看板。中華雑貨商の店内。

「七十五年の繁栄の歴史を持つ支那街」

7.横浜港にて到着した客船を迎える中国人

「此船で広東の学校を卒業した私の甥がやって来ます。東京の医科大学に入学するのです」

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8.医科大学の手術室。学生たちがガラス越しに注視する中で教授が手術

「日本の医学は華人留学生を通じて支那大陸に送られる」

9.どこかの会場の演壇。式辞を読む人物とその両側に居並ぶ式服を着た10人程の男性

「中華協会の発会式」

10.客で賑わう中華料理店の店内

「日本人は支那料理が好き」

11.雀荘の店内。麻雀を打つ男性客

 

『国際文化』の誌面から分かる情報はここまでです。実際の映画には、もっと多くの場面が入っているのかもしれません。

フィルムが残っていれば、多少の演出が入っていたとしても、戦前の横浜中華街の様子が分かる貴重な映像資料でもあるのではないかと思います。

 

ところで、従来のKBSの映画の場合では主題はもっぱら日本の伝統文化や日本人の生活、日本の風俗などであり、それらを外国人(主に欧米人)に紹介することが製作目的でした。

 

ではこの映画は誰に向かって、何のために製作されたのでしょうか?

 

日本に移住した華僑は、東京・横浜・名古屋・京都・大阪・神戸・福岡・長崎など全国に分散居住していましたが、満洲事変後は数がほぼ半減したということです。それでも約一万人以上が上記の都市を中心に居住しており、様々な職業についていました。

 

華僑といえば、世界各国に居住する華僑どうしのネットワークの強さが知られています。当時の日本政府は、特に南洋方面・インド方面・極東方面に居留している華僑が長い年月をかけて築いたネットワークの経済的・政治的な力を、「黙過出来ぬ大きな存在」と捉えていました。

 華僑の中でも特に日本品の輸出に関わる貿易商は、南洋方面の華僑と経済的に深い関係にあり、日本政府は時局柄、彼らの動向に注視していたようです。

 

『日本華僑生活之状況』は、日本にいる華僑の‟平穏で幸福な生活”を、他の地域の華僑に見せるために作られたのでした。

 

此映画はかうした華僑に呼びかけるために製作したものであるが、其内容は此事変下にあって、日本に居る君達の同胞は如何に暮してゐるだらうか?彼等は何等かの脅威を感じてゐるだらうか?此の疑問に答へてゐるのである。

(「国際文化振興会製作 日本華僑生活之状況」『国際文化』第10号)

 

 日本国内にいる華僑はもちろんのこと、日本の占領地・植民地にいる華僑を反日的な存在にしてはならない、できればむしろ日本に協力的な存在にしたい...との思惑が日本政府にはありました。

それは日本が推し進めようとしていた「大東亜共栄圏」という‟夢”の実現に、彼らの協力が必要だったからでした。

日本で同胞の中国人が平穏に暮らし、日本人とも穏やかに交流している姿を見せることで、彼らの警戒心を解こうとしたのでしょう。

 

この映画の字幕は北京語版と広東語版が作られました。

                  

まぼろしの映画:国際文化振興会製作『興亜三部曲』(1939年)

戦前の国際文化振興会(以下KBS)の文化事業は、1940年前後を境に大きく方向転換しました。彼らの対外宣伝活動の対象国は、1930年代は主に欧米先進国であり、「欧米における対日イメージの改善」が主たる目的でした。したがって1930年代に作られた映画の多くは、華道や茶道など日本の伝統文化を見せたり、陶磁器生産や日本傘の制作工程を見せたり、あるいは学校教育や都市生活など近代化された日本社会を見せるものがほとんどです。

そうした「宣伝映画」は意外に現存していて、国立映画アーカイヴや国際交流基金で観ることができます。

 

国際文化振興会って知ってますか? - Nipponの表象

プロパガンダ映画に描かれた「学校生活」(其の1) - Nipponの表象

 

しかし、1937年からの日中戦争の長期化と1939年の第二次世界大戦開戦という時代の変化から、KBSは1930年末頃にはそれまでとは異なる方向性の映画を作るようになりました。

 能や華道、日本庭園などを見せる欧米向けの「日本文化紹介映画」から、アジアの占領地を意識した「日本の国力・国情の宣伝映画」へ変っていくのです。

 

今回紹介する映画は、そうした流れの中で中国を意識して1939年に作られた、『興亜三部曲』です。

 

残念なことにこの映画の現存は確認できません。実のところ、アジアの占領地向けの映画のほうが興味がそそられますが、そちらのタイプの映画の多くが観られないのです。やはり、敗戦時のドタバタの中で急いで処分されてしまったのでしょうか?

 現状、これらの映画については、雑誌などの紹介記事から細々と情報を集めていくほかないようです。

 

KBSの機関誌『国際文化』に掲載された記事から、『興亜三部曲』とはどのような映画なのか、紹介したいと思います。

 

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 『国際文化』第6号(1939年10月)より。「興亜序曲」の一場面。「一行の東京駅到着時に於ける女学生の歓迎」

 

この映画は、中国の三つの訪日視察団の様子を追った記録映画です。

 まず一つ目の視察団は、3月に来日した「北支経済視察団」。これは日本占領下にあった華北を統治した中華民国臨時政府の実業部総長王蔭泰(おういんたい)・同政府参議・北京市商会主席ほか経済界の首脳者約30名で構成された視察団で、「日支経済の提携をかゝげて来朝した」とあります。

 

 次は、4月下旬に来日した「親善使節」。こちらは親日政権だった中華民国維新政府の立法院長・温宗饒(おんそうぎょう)と内政部長・陳羣(ちんぐん)両氏の来日のことです。

 

三つ目が、6月下旬に来日した広東治安維持会副委員長・呂春榮夫人を団長とする広東の上流階級婦人10名で構成されたグループです。

ちなみに治安維持会とは、日中戦争の期間中、日本軍が占領した地域に設置された治安維持を目的とする行政組織のようです。天津市や北平市にもあったようですね。

 

以上の三団体に同行してその旅程を追ったのがこの映画で、三部構成になっており、それぞれ「北支の経済」、「中支の政治」、「南支の婦人」がテーマになっています。

 

それぞれの内容を、映画紹介記事「日支を結ぶ記録映画『興亜三部曲』」(『国際文化』第6号)から要約して以下に紹介します。

 

第一部:「興亜序曲」

映画は「北支経済視察団」一行が平京(北京?)を出発するところから始まり、日本各地を視察し、日本を離れるまでを追っている。便宜上、日時順ではなく事柄ごとにまとめてある。

伊勢神宮に参拝する場面や、宮城前を行く場面もあった。

視察場所には、旅客機の製作所や八幡製鉄所、川崎造船所なども含まれているが、これは軍部了解の下に撮影された。これらが映画に撮影されたのは今回が初めてである。

他に、東京駅に到着した一行が民衆から熱狂的に歓迎される場面や、劇場で一般観客から期せずして歓迎される場面、それらに対して一行が感激する場面などがある。

以下、『国際文化』第6号の紹介記事より抜粋。

まさに偽らざる日支親善の劇的絵巻物を繰りひろげてゐる。

この映画の主体をなすものは、さすがに「日支合弁に依る北支開発は我等の責務である」と力強い抱負を語った一行だけに、我が国産業界の目覚しい躍進振りと日支間の精神的共力がそれである。

 

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『国際文化』第6号(1939年10月)より。「興亜序曲」の一場面。「日本及び北支の済界巨頭を一堂に会す工倶楽部招待懇談会」

 

第二部:「中支要人訪日記録映画」

中華民国維新政府を代表する温宗饒と陳羣の二要人が親善使節として来日した際の記録映画。当時の外務大臣・有田八郎や陸軍大将・松井石根との懇談場面がある。

その他、在日中国人の歓迎会に出席したり、湯島の孔子廟を訪れる場面がある。

自然日支間の政治的交渉の断片を窺かせてゐる。

その他在留華僑の歓迎会に臨んで二要人が強調する日支共力の談や又湯島の崇粛たる孔子廟を訪れ、今は荒廃の影を宿す自国の孔子廟に比較し、今更ながら日支間に於ける不可分の文化関係に驚く等は興味深いシーンである。

 

第三部:「広東上流婦人訪日映画」

‟女性目線”で、銀座や各地の観光地の様子や、女学校の視察、婦人団体との懇談などの場面を撮影。

これは日本とは一体どんな処かと、やさしい婦人の目がカメラになって撮しとった日本である。何処の国でも御婦人は買物がお好きと見えて、まずデパート、銀座が画面を賑はす、次いで活発たる意気を示す銃後の花の訓育見学のため女学校の視察、婦人団体との懇談等に始り、東京を離れて、名古屋、京都、神戸と観光の旅を続ける、戦争にびくともしないなごやかな日本の姿である。

 

こうして並べてみると、何だか第三部の映画だけ、内容もさることながら記事の書き方も適当な感じですね(笑)。

 

第一部・二部は中国の有力な人物を通して日中関係の親密さを強調する思想宣伝、第三部は裕福な上流婦人たちを通しての観光紹介という位置づけなのでしょうか?硬軟とりまぜて変化をつけようという意図なのかもしれません。単純に、女性が登場すると映画が明るく華やかになるということもあるでしょう。

 

『興亜三部曲』は、中国語のナレーションと字幕を付けて、陸軍報道部を介して中国各地に配給される予定と記事にはあります。KBSでは多少編集を変えて、他の言語版も製作し、いずれは東アジア全般へ配給することも視野にあったようです。

 

まぼろしの映画:国際文化振興会製作『日本華僑生活之状況』(1940年) - Nipponの表象

1958年の雑誌『新建築』より:‟あの頃”から20年後の山脇巌と前川國男

建築家の山脇巌は、戦前にバウハウスに留学した三人の日本人のうちの一人として知られています。同じくバウハウス留学生だった妻の山脇道子(結婚後に夫婦で留学)とともに、帰国後は日本のデザイン教育にも貢献しました。

 

山脇の戦前の仕事の一つに、戦前最後の国際博覧会であるニューヨーク万博(1939年)のカヴァードスペース(国際館日本部)の展示デザインがあります。

日本から竹や玉砂利をアメリカに持ち込んで装飾に使っていたり、和紙を利用したりとオリエンタルな雰囲気づくりで‟日本らしさ”を強調したデザインが特徴です。ややもするとキッチュな感じにもなりそうな装飾ですが、富士山を写した巨大な写真パネル(当時は「写真壁画」と呼ばれました)の展示も合わさり、当時としては斬新な展示デザインでした。

 

戦前の国際文化振興会(KBS)がタイの建国祭に出展した際にも、山脇は展示デザインを担当しています。官製博覧会と相性がいい人なのか、それとも官庁・国際機関関係者からの信頼があったのか、本職の建築設計の方は個人住宅が多い一方で博覧会展示においては国家がかりの大きなプロジェクトに縁があった人でした。

 

戦後もそういう関係性が続いていたのでしょうか、海外貿易振興会(JETRO)と国際観光協会(JTA)が参加した1958年の第二回米国世界見本市(The Second United World Trade Fair 1958)の日本部の展示をデザインしています。

 この展示、ニューヨーク万博の時と比べると‟ささやか”と言ってもいい規模ではありますが、やっぱり不思議な空間になってます。

その展示の一部が以下の写真です。

 

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『新建築』33巻5号(1958年5月)より。

 

大きな仏頭がインパクトあります。記事によれば、この仏頭は興福寺東金堂の壇下から発見された旧本尊薬師如来の頭部の複製品で、合成樹脂製です。

仏頭の後ろに書かれている文字が見えないのですが、「仏」でしょうか。

別の角度から見るとこんなふう。

 

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展示の主催は国際観光協会で、その目的は観光客誘致のための宣伝です。

向うに見える壁面には「JAPAN AIR LINE」の文字の下に日本とアメリカを結ぶ航空路線図。その隣には日本の観光名所の写真が並べられています。この写真からはっきり確認できるのは鎌倉大仏くらいですが。

 

そして雛人形やら鉄瓶やら扇子やら編み笠やらがポツンポツンと配置されてます。

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正直なところ、仏頭以外はそれほど面白くないデザインですが、玉砂利や瓦などを装飾に使っているところが、ニューヨーク万博の展示デザインにも通じて、‟山脇巌っぽさ”を感じます。

 

戦中~敗戦という激動の時期を経て戦後になっても、相変わらずこうした国家系機関の宣伝事業に携わっていたんですね。「国家宣伝活動=プロパガンダ」というほどの意識はなく、プロのデザイナーとして国家の仕事を請け負っただけという感覚だったのかもしれません。

 

展示デザインそのものも、戦前の作風とあまり変化が感じられません。そういう意味で、1930年代に既にデザイナーとしての個性が完成してしまったのかなとも思います。

 これが‟あの頃”から20年後の山脇巌の仕事。

 

ところで1958年といえば、以前、当ブログでも紹介したブリュッセル万博開催の年でもあります。

戦後最初の万博で日本が見せたかったモノ(其の1) - Nipponの表象

戦後最初の万博で日本が見せたかったモノ(其の2) - Nipponの表象

 

ブリュッセル万博の日本館を設計したのは前川國男でした。

前川が日本のパヴィリオンの設計を手がけるのは、実はこれが初めてではありません。1937年のパリ万博の日本館は、坂倉準三の設計が採用される前は、実は前川案が有力だったのです。どちらが採用されても、それまでの日本館の慣例を覆すモダニズム建築になっていたわけですが、結局のところ坂倉案が採用されました。そして坂倉の日本館のデザインはグランプリを受賞し、日本の近代建築史に輝かしい足跡を残すことになりました。

 

前川國男は、どういう気持ちだったんでしょうか…?

 

しかし戦後最初の国際博覧会であるブリュッセル万博において、前川は遂にパリ万博の仇を取り(?)日本館の設計者の地位を勝ち取ります。そしてさらに凄いのは、この前川のパヴィリオンも金賞を受賞するのです。

『新建築』33巻10号(1958年10月)の記事より。

もっとも最高の金賞といっても10位まであり、日本館は9位、1位はチェコスロバキア。しかし世紀の大博覧会といわれ参加国43ヵ国、独立建物116のうち9位は立派なもの。それも建物だけなら7200万円、あらゆる費用を入れても3億円の日本館が、160億円もかけたソビエト館をぬいて入賞したことは、日本の建築界にとってうれしいニュースだ。

 

はい、私も何だか嬉しいです(笑)。

 

ちなみに同記事には、博覧会終了後、 この建物を売って欲しいという申込みがカナダ・イタリア・オランダから来ているとの報も載っています。またアメリカからは、1961年の世界科学博にも同じ建物を出品して欲しいとの申し出もあったとか。

これは勝手な想像ですが、これでようやく前川は自身が実現できなかったパリ万博日本館のまぼろしみたいなものから解放されたのではないでしょうか。

 

‟あの頃”から20年後の前川國男の仕事でした。 

藤田嗣治の対外文化宣伝映画『PICTURESQUE JAPAN(風俗日本)』:外国人目線で作ったら...こうなった?!(其の3)

まるきり不評だった藤田の映画「風俗日本」ですが、果たして藤田自身はそのことをどう思っていたのでしょうか。それとも、彼にとってはそんなことは“想定内”だったのでしょうか。

藤田嗣治の対外文化宣伝映画:外国人目線で作ったら...こうなった?!(其の2) - Nipponの表象

 

フジタが描いた日本の表象

  澤村勉の批評「現代の日本」(『映画評論』131号)は、藤田嗣治という芸術家の本質について鋭い洞察を示しています。

 

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 『現代日本』シリーズ・藤田の「風俗日本」の一場面。床屋にて頭を刈る田舎の子供。

 

澤村は『現代日本』のうち鈴木重吉が監督した4篇に関しては、国際映画協会が欲しているものを、過不足なく器用に、論理的にまとめあげていることを評価し、ひとまず及第点を与えています。その上で、もう一方の藤田の5篇に対しては、かなり辛辣に批判しています。

ところが、藤田嗣治の五巻は、思ひ切って様子が違ってゐる。国際映画協会のイデオロギイがどうであらうと、そんなことには一向にお構ひなく、あの、所謂「道徳」を踏みにぢった藤田嗣治の人間が、野放図に振舞ってゐる。誰に遠慮もなく、白日のもとで、実に大っぴらなのである。

 

 澤村が具体的に批判している映画の各部分は次のとおりです。

『子供日本』では、藤田嗣治が一昨年の二科へ出品した「北平の力士」そっくりのグロテスクなメイク・アップをした子供が、これも同じやうにグロテスクな男の紙芝居に興がり、城の石垣を背景に棒切れの剣戟を始め、切腹の真似を演じてみせる。

『娯楽日本』では二人の娘が、芝居や東をどりなどを観てまはり、(中略)外国人を真似た実に変妙この上もない表情をしてみせる。

『都会日本』では、(中略)浅草の俯瞰から突然、阪東妻三郎の剣戟映画が何の前振れもなく挿入される。遂に藤田嗣治自身が泥棒になって現れ、警視庁の新撰組の出動となり、横浜の波止場で、変装して密航しようとする間際に掴まへられるといふ始末である。

 

澤村には藤田の「風俗日本」は、「すべてがかういふ調子である。それが何のきっかけもなく始まり、何のきっかけもなく終る。理路もなく、常識もなく、藤田嗣治のとぼけ返った意志にまかせて」と見えました。

要は、とりとめがない映画ってことですね。

 もう一方の鈴木重吉がいわゆるプロの映画監督だっただけに、映画の基本を無視した(ように見える)藤田のやり方は、かなりいい加減(野放図)に感じられたようです。

 

カメラと豊かな費用を与へられて、藤田嗣治は羨ましい位いい気持である。ふんぞりかへって、大の字なりに天地へ寝ころんでゐる。われわれ行儀のいゝ観客を前にして、空が青いのはなぜだらうなどと独りで呟いてゐるやうな格好である。その格好を、われわれは最初冷笑する。哄笑し、爆笑し、噴飯する。

藤田嗣治などに、まともな映画をつくられて耐るものかと思ふ。

 

藤田に対する反感が文面から伝わってきます。

しかし、澤村が他の批評家たちと違うのは、その後、違う視点からこの映画について考えてみる余裕があったことです。

 

ところが、五巻を噴飯し終ってしまふと、どうもこれは可笑しいぞと警戒しはじめる。藤田嗣治を笑ってゐるのか、藤田嗣治に笑はれてゐるのか、あやしくなり、自信がなくなって来るのである。冷笑し噴飯したつもりで居りながら、結局は藤田嗣治に笑はせられてゐたことに気付くのである。われわれを心の底から爆笑させたものが、やはり、藤田嗣治の芸術家の一端であることに気がつく。鈴木重吉の作品の方は、あゝそうかと思ふとそれで終るが、この方は、おかっぱにロイド眼鏡のとぼけかへった藤田嗣治があとまで残るのである。

 

いわゆる、“馬鹿にしているつもりだったら実は馬鹿にされていた”、というやつです。

澤村は、藤田の映画を単なる駄作・劣作と一刀して終わるのではなく、ひとクセもふたクセもある性格の藤田が、官製映画を大人しくお上の言うとおりに作る訳がないではないか、という鋭いツッコミを入れます。

澤村の指摘は納得できるものがあり、藤田嗣治という人は、いまふうに言うならば相当キャラが濃い人だったようです。そして良くも悪くもその独特の個性は周囲に波風をたてがちだったようで、映画のみならず彼自身のキャラクターに対する批判まで湧き起こってしまいます。

 

フジタとは何者なのか:キャラクターへの反発

例えば前述の兼子慶雄は、映画について論じるよりも先に、まず監督たる藤田に対する遠まわしの批判から始めます。

この悲劇は、此の映画の為めに選ばれた二人の監督の中の一人が、秋の陽を一杯受けながら頓狂なメキシカンか何かの扮装をして、先づ手馴らしに都会の俯瞰をといった調子で撮り始めた或るビルディングの屋上から既に始まってゐるのである。否、厳しい観方をすれば、斯うした危険性の充分ある者を監督にしようと、本映画製作関係の最高スタッフが頭に浮べた時から始まってゐる、と云へない事も無いかも知れない。

 

また上野一郎はこんなふうに書いています。

彼は、何処かで「日本へ帰って来て驚くのは家屋である。こんな家に住んでよく生きてゐられるものだと感心する。」といふやうなことを書いてゐたが、ぬけぬけとかういふことをいふ人物に、「現代日本」を描かせたら、どんなものが出来上るか、凡その想像は出来ようといふものだ。

 

澤村もまた、批評文の最後をこんな言葉で締めくくっています。

藤田嗣治も、協会の映画をつくり乍ら、よくあれだけ気儘勝手に振舞ったものである。もっとも、私は、藤田嗣治の不作法そのものは、少し反省の足りないところが気になって、あまり好意はもてないのだが。

 

 “愛されキャラ”の真逆をいく“憎まれっ子キャラ”かもしれません。

 

 日本人は真面目が好きです。あと、ものごとを茶化したり、まわりをからかったりする人間が基本的に嫌い。藤田が「風俗日本」で描いた“フジタの日本”は、多くの日本人には日本を馬鹿にしているように感じられたのかもしれません。

 

「国辱」とは、もちろん第一義的には「国に恥をかかせる」という意味ですが、この場合「国を馬鹿にしている」という意味もありそうです。

 

作者が自分の映画作品中に顔を出すというと、コクトーが『詩人の血』でやっていた気がします。ブルトンなどフランス・シュルレアリスムの芸術家も、前衛映画や演出された写真などに芝居っ気たっぷりの様子で登場しています。

 

藤田も、そんなノリだったのでしょうか。

 

もしそうだとしたら、藤田にとって不幸だったのは、当時の日本では文化人や国際派知識人といったハイソサエティな階層の人々にすら、そんな“芸術的ウィット”を受け入れる余裕などなかったことでしょうか…。 

ともあれ、長年の外国暮らしでそうなったのか、それとも元からそんな性質だったのかは分かりませんが、外見は日本人だけど中身は外国人だったフジタが「日本」映画を撮れば、“純日本人”から総スカンを喰らう可能性(危険性?)は充分あったわけです。

 

ただし、これはもう一方ではある種の可能性も秘めてもいます。つまり、日本人には不評だけど外国人には評判がいい映画となったかもしれない可能性です。

 

 しかし、この可能性は試されることはありませんでした。

 

澤村は上記の評論の中で、藤田の映画の海外輸出を「検閲が許可するかどうか、極めて疑わしい」と予測していますが、事実、『現代日本』は内務省の映画検閲において輸出許可が出なかったようです。

 

笹木氏の報告「藤田嗣治監督の映画『風俗日本』」によると、この映画の完成後、「国辱的作品」と非難が始まり、美術批評家協会では会議を開いてこの映画への対応を協議したようです。1937年3月27日、同協会は、「同映画は芸術的価値高く、行き詰まれる対外日本文化紹介に、一新紀元を画するものとコミュニケに発表」しました。

さらに4月14日には、美術批評家協会は文芸・美術・映画の関係者を招き試写会を開き、その後この映画の輸出の是非を問う記名式の投票を実施しています。

藤元論文によれば、東和商事の事務室に大宅壮一、栗原信一、飯島正らを招いて試写会が開かれ、さらに23日には築地小劇場で公開試写会と投票が行われました。結果は、来場者の約3分の1にあたる107人が投票し、無効5・絶対支持53・条件的支持17・反対32と、藤田を支持する結果となり、美術批評家協会は輸出促進の建議書を内務、外務の両省に提出することになったとか。

そして美術雑誌『アトリエ』の5月号では、保坂富士夫が〈果たして国辱か、藤田嗣治氏の映画「風俗日本」〉と題して意見を述べています。

上記の経過を見るに、美術界は藤田の映画に対し、比較的好意的だったと思われます。映画業界人たちのの冷ややかな反応とは正反対ですね。

 

興味深いことに、一部の封切館では上映されました。松竹洋画系のSYチェーンが5月27日から『無敵艦隊』(イギリス映画)『港の掠奪者』(フランス映画)という劇映画に併映させる形で『現代日本』の藤田の「子供日本」「婦人日本」「田園日本」「都会日本」を系列の二館で上映しています*1

どうやらこれは、この映画の話題性に目をつけた結果のようで、「果たして国辱か?他の評言より、貴方の厳正な御批判を待つ‼」などという煽り文句が広告に踊っています。いまで言うなら、炎上案件にわざと乗っかって観客動員を図るというパターンです。

 

果たして、この煽り文句に乗せられて多くの観客が足を運んだのでしょうか?そして、彼らはやはり「国辱」と思ったのでしょうか?

                           

 今後の研究に期待します…。

藤田嗣治の対外文化宣伝映画:外国人目線で作ったら...こうなった?!(其の1) - Nipponの表象

*1:藤元論文

藤田嗣治の対外文化宣伝映画『PICTURESQUE JAPAN(風俗日本)』:外国人目線で作ったら...こうなった?!(其の2)

前回では、『現代日本』のうち藤田が監督した「風俗日本」各篇に関する情報を、文献資料から抽出して並べてみました。

藤田嗣治の対外文化宣伝映画:外国人目線で作ったら...こうなった?!(其の1) - Nipponの表象

 

対外文化宣伝映画の多くは、劇映画のように一つのストーリーがある訳ではなく、断片的なイメージの集積で構成されているものが多いです。藤田の映画でいえば、「田園日本」「子供日本」「婦人日本」がそのタイプでしょう。

しかし「娯楽日本」と「都会日本」に関しては、小話仕立てになっていたようです。

現存していれば観てみたいのは断然、後者のほう、とくに藤田自身が出演する「都会日本」ですね。藤田のルンペン(泥棒?)姿を観たいですね。

 

フジタの気持ち:映画製作のポイント

ところで藤田自身はいかなるつもりでこの映画を作ったのでしょうか。『現代日本』のパンフレット 『Japanese Life in Pictures』(国際映画協会、1936年2月)には、藤田自身による映画の紹介文が収録されています。

原文は英語と仏語。拙訳ですが、翻訳したものを以下に掲載します。

 

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『現代日本』シリーズ・藤田の「風俗日本」の一場面。「田園日本」篇でしょうか。

 

外国人が好むと思われた映画の多くが、その期待に添えられなかった。日本のやり方は西洋とは違うし、日本人にはよく分かっている習慣も外国人には戸惑うことが多い。そこで私たちは、日本に関する知識がなくても容易に理解できる日本的特徴を選んだ。日本を訪れる外国人は、他の国にはないさまざまな面白いものに楽しい印象を抱いて帰国することがよくある。この映画にも同様の結果が期待される。

私たちは、年に1度、地方の村で開催される特別な民俗舞踊など、まれにしか観られない出来事を描くことは避けた。その代わりに、日本人の生活そのものであるシンプルな出来事や日常的な行事を紹介しようとした。これらは美しさ、興味、多様性、時代の精神に富んだ素朴な物語の中に織り込まれている。進歩的な近代国家の活動の裏に流れる伝統的な日本人の生活の人情味あふれる雰囲気を、観客に伝えたいと願っている。

私たちは、すべての人にアピールし、すべての人に理解されるような映画を作るよう常に心掛けた。

藤田嗣治

 

ここでのポイントは、

①日本に関する知識がなくても容易に理解できる日本的特徴を選んだ

②年に1度、地方の村で開催される特別な民俗舞踊など、まれにしか観られない出来事を描くことは避けた

③日本人の生活そのものであるシンプルな出来事や日常的な行事を紹介しようとした

④すべての人にアピールし、すべての人に理解されるような映画を作るよう心掛けた

ということになります。

 

どうやら藤田としては、ことさら日本のエキゾチックな側面を強調する外国人受けのいい映画ではなく、既に近代国家としての道を歩んでいる日本の日常の姿をみせたかったようです。

もっとも、藤田のパートには、日本の社会制度や近代的な設備などを紹介するようなところは全くありません。そういった部分は、もう一方の鈴木重吉のパートが担っているのです。むしろ藤田のパートのほうは、現実離れしたファンタジックな世界のようにすら感じられます。

 その一方で、「ありふれたものと違った日本」を見せたいとも別のインタビューでは語っているので、そういった新奇性が発揮されたのかもしれません。

芸術家の場合、オフィシャルなところでの発言がそのまま本音であるとは限りません。上記の文章を読む限りでは常識人のように見える藤田ですが、彼の本質はやはりその作品に最も濃厚に、露わになっているように思えます。

 

批評家たちの反発と酷評の中身 

フィルムが現存していればここで実際の映画の分析ということになりますが、残念ながら無いので、藤田の「風俗日本」に対する当時の映画批評を参考にしながら、藤田およびこの映画の本質ついて考えてみたいと思います。

 

 雑誌『映画評論』131号(1937年2月)では輸出映画について特集しており、『現代日本』のスチール写真といくつかの批評が掲載されています。これらを読むと、「風俗日本」の何が「国辱」と受け止められたのか、藤田のやり方の何が問題視されたのかが浮かび上がってきます。そしてそれこそが、藤田嗣治という芸術家の良くも悪くもうろんな部分をよく映し出しているように思えるのです。

 

まず兼子慶雄の評論「輸出映画の問題――『現代の日本』を中心として 映画日本」(『映画評論』131号)から見ていきます。

とまれ本篇は、自他共に許す大変なる劣作であった事は、見た者の誰れもが認める処であらう。

(中略)

各篇が内容とする処の各主題に対する見方に至っては、その内の一二を除いては余りに思ひ付き的であり、頗る独りよがりであり、何よりも国辱的なのである。

 

「自他共に許す大変なる劣作」とまで言い切っています。しかし読者に親切なことに、続いて各篇のどこがどう「国辱」なのかを細かく指摘しています。

「子供」篇は対外的にばかりではなく国内に於てさへも種々と非難されてゐるチャンバラをわざと子供にさせて、所謂時代物の剣戟風景を、嘘とは知りつつ現実的に肯定してゐるのである。(中略)

「婦人」篇は所謂ゲイシャガールの概念を一歩も出たものではなく、「娯楽」篇はただの新旧お芝居の覗き見みたいなものであり、「都会」篇に至っては、最早巴里会の茶番劇以外の何物でもない。こんなふざけたストオリイは八ミリでも撮る奴はないだらう。(中略)

「田園」篇に於ける愛国的な半分はメキシコ風景であり、雪国のそれは云ふまでもなくエスキモーである。

 

チャンバラ場面(と最後の“ハラキリ”場面)は他の論者からも不評なのですが、どうやら当時でもチャンバラごっこを子供の無邪気な遊戯とは捉えてはいなかったようです。

最後の「田園」篇に対する批判は、注目すべきものがあります。もちろん「風俗日本」に海外ロケはありません。つまりここで兼子は、日本の“辺境地”に向ける藤田の視線のあり方そのものに批判の眼を向けているわけです。民族的には日本人であっても、長い欧州暮しとその独特の性格によってかなりヨーロピアンナイズ(?)されていたであろう藤田の“異国人としての眼差し”が、もっと言えば先進国が後進国に向ける好奇と優越の眼差しが、ここで指摘されているのです。

 

藤田の「日本」に対してむける眼差しが、本人が自覚している以上に外国人に近いことは、他の批評家たちも言い方は違えど同じように指摘しています。

 

村尾薫の批評「日本映画輸出の具体案」(『映画評論』131号)もまた、この点を指摘しています。

 

村尾の批評は、その大半が『新しき土』*1に関する内容で占められているのですが、比較の材料(悪い方の)として『現代日本』が俎上にあげられています。

 

村尾は、外国人の多くは日本に関する知識をほとんど持たないため、一本の映画の中で「古い日本」と「新しい日本」の両方を描かないと誤解を招く危険性があると考えていました。なぜなら古い日本のみを見せると旧弊で野蛮な国だと誤解されるし、また一方で近代的な日本のみを見せると、日本はただ欧米の模倣をしているだけで独自の魅力を失っていると思われるからです。

 

さて、その視点から『現代日本』を見た場合、藤田の監督したパートは古い日本を主とし、鈴木の監督したパートは新しい日本を主としている訳で、その意味では輸出用映画として過不足ないものと言えるはずです。しかし…。

鈴木氏の作品はまづまづ無難であるが、藤田氏の作品は、アメリカあたりのニュースカメラマンが来て日本の殊更珍らしい風俗を探して撮って行った国辱的ニュースとどれだけの隔りがあらうか。あまり永く海外に滞在した藤田氏は却って日本人の感覚もなくしてしまったのではあるまいか。(中略)

全体としての統一が全然なくて、一巻の映画の中でも支離滅裂で、しかも不自然なわざとらしい場面が多い。(中略)

藤田画伯は殊更自分の画枠に一つ一つの画面を当てはめようとして却って失敗したと思はれる。(中略)

藤田氏の作品『子供日本』『娯楽日本』の如きは現代日本の宣伝に役立たないことは明らかである。藤田画伯をわづらはすなら、寧ろ画伯の専門の仕事に近い方面で、日本の絵画、彫刻、建築等の美術や庭園、茶の湯、生け花などの趣味の方面を紹介する映画を作ってもらった方がはるかによかっただらうと思はれる。

 

藤田のために言っておくと、彼は後年、国際文化振興会の主催した海外展覧会で講演をしたり、その他、いわゆる「専門の仕事に近い方面で」日本文化の宣伝に貢献しています。

村尾の批評には、専門外の仕事である映画監督に進出した藤田に対する苛立ちがあります。村尾自身が対外宣伝映画の製作に深く関わってきたことから、映画制作の基本を踏まえていない素人と感じたようです。

実際、藤田は映画的話法や技法などほとんど頓着していなかったと思われます。

 

しかし、もしかすると藤田にとってはそんなことはどうでも良かったのかもしれません。

 

というのも、次に紹介する澤村勉の批評「現代の日本」(『映画評論』131号)を読むと、これらの映画におけるトリッキーな藤田の演出に、何やら確信犯的匂いが漂っているからなのです。

 

(其の3)へ続きます。 

藤田嗣治の対外文化宣伝映画:外国人目線で作ったら...こうなった?!(其の3) - Nipponの表象

*1:実はこの年、『現代日本』よりはるかに大きな話題となった「海外輸出用国際映画」が製作された。ドイツの有名監督アーノルド・ファンクを監督に招き、東宝系のJOと東和商事が共同で製作した劇映画『新しき土』である。まだ17、8歳ぐらいだった原節子が重要な役で出演していることでもよく知られている。

藤田嗣治の対外文化宣伝映画『PICTURESQUE JAPAN(風俗日本)』:外国人目線で作ったら...こうなった?!(其の1)

今年は没後50年ということで、藤田嗣治の展覧会が開催されたり、テレビ・雑誌などで特集されています。

日本美術界においては巨匠に位置する画家です。国内外の名だたる研究者が藤田の絵画について研究しています。

そんな「フジタ」を当ブログで取り上げるとは身の程知らずかもしれません.........が、今回は藤田嗣治が監督した映画という番外編なので、僭越ながら紹介したいと思います。しかもこの映画、試写会を開くなり批判と嘲笑の的となり、結局当初の目的である「海外輸出」が許可されなかったといういわくつきなのです。

 

藤田が監督した対外文化宣伝映画『現代日本』(1937年)については、藤元直樹さんの「映画監督・藤田嗣治 国辱映画論争をめぐって」(『映画論叢』16号、2006年12月)という論文で、藤田がこの映画を撮るにいたった経緯と出来上った映画についての評論家・文化人巻き込んでの喧々諤々の論議が明らかにされています。

また、笹木繁男さんの「藤田嗣治監督の映画『風俗日本』」(『美術の窓』282号、2006年7月)という報告もあります。藤田の映画が完成後「貧しすぎて国辱」とまで言われ、結局一部の関係者以外には非公開とされてしまうに到るまでを、当時の新聞記事から情報を拾い出して紹介しています。

現在さらに研究が進んでいるのかもしれませんが、今回は上記の二つの先行研究と、映画の宣伝用に作成したと思しきパンフレット『Japanese Life in Pictures』(構成:日本工房、発行:国際映画協会、1936年12月)、当時の映画雑誌『映画評論』を参考文献にして、この映画について考えてみたいと思います。

 

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『現代日本』シリーズ・藤田の「風俗日本」の一場面。構図がいいですね。

 

『現代日本』は9篇から成る短編映画集でそのうち藤田が監督した5篇をまとめて「風俗日本」というタイトル、鈴木重吉という文化映画専門の監督が担当した4篇をまとめて「躍進日本」というタイトルが付つけられています。。

『Japanese Life in Pictures』に掲載された9篇それぞれの原題(英語)と邦題は以下になってます。

(丸括弧は筆者の翻訳。カギ括弧は当時の国内メディアでの通称)

********************************************************************** 

JAPANESE LIFE SERIES(日本の生活シリーズ)『現代日本』

 

PICTURESQUE JAPAN(美しい日本)「風俗日本」

Directed by Tsuguji Foujita 藤田嗣治

1.Sons of the Rising Sun.(日出ずる(国の)息子たち)「子供日本」

2.A Day with Japanese Maidens.(日本の乙女たちとの一日)「婦人日本」

3.Japanese Countryside.(日本の田舎)「田園日本」

4.Tokyo Rhapsody.(東京ラプソディ)「都会日本」

5.Play-Time in the City.(都市の興行時間)「娯楽日本」

 

GLIMPSES OF NEW JAPAN(新日本瞥見)「躍進日本」

Directed by Shige Suzuki 鈴木重吉

6.Industrial Life.(産業生活)「産業日本」

7.Children at School.(学校の子供たち)「教育日本」

8.National Defence.(国防)「国防日本」

9.Sports.(スポーツ)「スポーツ日本」

********************************************************************** 

 

旧・国立近代美術館フィルムセンター(現・国立映画アーカイブ)には、そのうち藤田の「子供日本」と、鈴木の「産業日本」「教育日本」が収蔵されています。現存が確認できるのは今のところこの3篇だけのようです。

 

前述の藤元論文によれば、藤田をこの映画の監督に起用したのは、外交省で国際交流担当だった柳沢健でした。柳沢は、1927年に仕事の関係でパリにいた藤田と知り合い、以後交流を深めていったようです。1934年頃、柳沢は藤田がメキシコで撮影した16ミリフィルムを目にする機会があり、その映像に感心し、そこから国際文化交流のための映画製作の構想と、その監督に藤田を起用する案を膨らませていったということです。

外務省で国際交流といえば、国際文化振興会。同じ1934年4月に発足した同会では、なんと「マダム・バタフライ」を藤田嗣治監督、三浦環主演でPCLで映画化する計画があったとか。『読売新聞』に報じられていることなのでかなり確度の高い話であったはずですが、なぜかこの企画はなくなり、約一年後、『現代日本』が東亜発声ニュース映画製作所で作られることが決定されます。

ちなみに『現代日本』は国際文化振興会ではなく、国際映画協会(1935年設立)が企画・配給したものです。同会は、翌年に外務省の外郭団体となりましたが、後に事業は国際文化振興会に継承され、解散しました。

 

当初の「マダム・バタフライ」の企画から『現代日本』製作に変更されるまでの間に何があったかは不明ですが、「マダム・バタフライ」は日本文化の宣伝という点ではかなり微妙な題材なので、反対意見があったのかもしれません。

映画のロケ地は鹿児島・熊本・松山・広島・大阪・京都・飛騨・木曽・秋田・東京など広範囲に広がっています。これだけでも力の入り様がわかります。映画に登場する子供たちや女性なども、一般人の中からイメージに合う人物を探して抜擢することにしたため、キャスト探しには苦労したようです。

前述の笹木氏の報告には、1935年11月13日付の『海南新聞』に掲載された藤田の談話が紹介されています。それによると藤田は、この映画が全国でロケ撮影して作られることについて、「九州の男性的、四国の女性的、東北の暗さの三明暗を配置して京都・奈良・日光などのありふれたものと違った「素地日本」を全世界に宣伝する」云々と述べているようです。藤田による日本の地域性の解釈も興味深いですが、とにかく「ありふれたものと違った」日本を見せようとしていたわけです。この映画は、英独仏西の四ヵ国語版が作られる予定だったので、やはり監督する上で藤田の念頭にあったのは、ヨーロッパの観客だったのでしょう。

 

映画の全体像をつかむために、参考文献の情報から、藤田が監督をした各篇がどのような内容だったかを分かる限り以下にまとめてみます。

 

藤田嗣治監督「風俗日本」の内容

5巻、5千フィート。1935年8月15日に藤田の監督起用が発表される。同年10月から撮影開始、翌年6月に撮影完了。音楽は吉田晴風・小松清雨。カメラは三浦光雄。 

 

プロローグ

・山田耕筰が新日本交響楽団を指揮するシーンと、懐から猫が飛び出すのと同時に藤田が立ち上がってロケへ出かけるところから「田園日本」篇へとつながる

注)柳沢健により上記部分の脚本が書き下ろされたらしいが、実際にその場面が撮影されたかは不明。

 

 1.「田園日本」

・鹿児島・熊本・飛騨・木曽・秋田の風俗を描写

・鹿児島の祭り“太鼓踊り”の行列と踊りの紹介

・馬に乗って畑から帰ってくる阿蘇山地の農民の紹介

・桜島の若い女性が頭に籠を載せて物を運んでいる場面

・雪国の子供たちの紹介。“カマクラ”でままごと遊びをする少女たち。少女たちはメーキャップをしている

・蓑帽子と半纏で防寒して外出する少年たち

・雪ソリで遊ぶ小さな子供たち

 

2.「子供日本」

・四国松山を舞台に、無邪気な子供たちの生活を紹介

・村の床屋で頭を刈り上げてもらう子供の姿

・石投げして遊ぶ子供たち

・紙芝居をみる子供たち

・城の石垣を背景に子供たちががチャンバラごっこをし、子供の一人が最後に切腹の真似をする

・チャンバラごっこの子供たちはメーキャップをしている

  

3.「婦人日本」

・裕福な家庭の娘がどのように一日を過ごすのか紹介

・長唄のお稽古のために外出する娘の身支度を女中が手伝う場面

・長唄の師匠の家を訪問し、稽古をつけてもらう場面

・同じような裕福な娘数人が、談笑しながら連れ立って帰宅する場面

 

4.「娯楽日本」

・洋服を着た娘と和服を着た娘が物語の中心。東京の娯楽街が舞台。

・「純日本趣味の姉とモダン色ゆたかな妹」の姉妹が歌舞伎へ行かうか、レヴューにしようかで喧嘩する。姉は「三番叟」へ、妹はレヴュー、キネマ見物へ出かける、というプロローグが当初予定されていた

・「三番叟」を舞う段四郎、猿之助の沢潟屋親子の舞姿が撮影された

が、この場面が映画に使用されたかは不明

・二人の娘が、芝居や東おどりなどを観てまわり、ダンス場へ出掛け、桜の下にハイキングに行く 

 

5.「都会日本」

・浅草の易者の預言から、物語が始まる

・浅草の俯瞰場面に阪東妻三郎の剣戟映画が挿入される

・藤田自身がルンペン(あるいは泥棒)に扮して出演している。悪事を働き横浜の波止場から変装して高飛びしようとするが、警視庁が出動し、藤田は捕縛される

 

 

どんな映画だったのか、少しは想像できたでしょうか。 

「子供日本」は私もかなり昔に観ましたが、すでにほとんど記憶が薄れてしまっており…もっとも「切腹」シーンだけは強烈だったのでよく覚えているのですが。

 もっと多くの資料を探せば、もっと詳細な内容が分かるかもしれませんが、それは今後の研究にお任せしたいと思います。

 

ざっと内容を見た感じ、かなり取り留めがないというか、無邪気で無害な内容に思えます。偏ったイデオロギーを喧伝してる訳でもなく、言ってみるならば“横浜写真”の映画版とでもいった印象です。

 

何が、この映画を観た人々の気に触ったのか?なぜ「国辱」なのか?

 

次に、この映画に対する映画評論家や文化人、関係者のフルボッコぶりを紹介したいと思います。そして、この映画の何が「国辱」とみなされたのかという点について考えてみます。

 

(其の2)に続きます。  

藤田嗣治の対外文化宣伝映画:外国人目線で作ったら...こうなった?!(其の2) - Nipponの表象

国際観光局製作『日本の四季』(1933年)が『光画』同人にボコボコにされてた

過去に集めた資料を何気なくめくっていたところ、面白いものを見つけました。『光画』という戦前の写真雑誌に、国際観光局製作の観光宣伝映画『日本の四季』(1933年)についての作品評が載っていたのです。

 

『光画』は、写真家の野島康三が1932年に木村伊兵衛、中山岩太、写真評論家・伊奈信男とともに創刊した同人誌です。内容は、写真技術に関する記事だけでなく、当時の最先端だった「新興写真(ノイエ・フォト)」に関する論説や、モホリ=ナギの映画論など外国の映像・写真理論の翻訳を掲載したり、スタイケンやレンガー=パッチェの作品を紹介したりしています。

同人誌なので刷り部数は少なく、さほど購買数も多くなかったようです。しかしこうした高度な専門的内容を持つ雑誌が戦前に出版され、現在こうして参照できることは、日本の大きな文化的財産といえるでしょう。

ちなみに、『光画』については、飯沢耕太郎『写真に帰れ 「光画」の時代』(平凡社、1988年)という詳細な研究書があります。

 

さて、そんなどちらかといえば芸術志向の強い同人誌に、なぜ観光映画なぞの批評が載っていたのでしょうか?しかも伊奈信男、木村伊兵衛、野島康三、原弘、山内光など錚々たる人々がコメントしているのです。

 

どうやら...映画の内容が“ひどすぎる”ことが理由だったようなのです。

映画評全体につけられたタイトルは、「鉄道省製作映画『日本の四季』批判」。『光画』第2巻第7号(1933年7月)に掲載されました。

 

まず前文に、なぜこの映画について批判するのかという理由が述べられています。

鉄道省観光局によって製作された映画「日本の四季」が、愈々某社の手によって輸出されると聞く。この映画に就ては、是非の議論喧しく、或者はこれこそ国辱映画の見本であるといふ。

のっけからもうネガティヴです。

吾々もまた日本人として、このやうな映画の製作と輸出に就ては多大の関心を持つものである。此処に同映画に対する厳正なる批判を公表する所以である。

 

日本人として、こんな駄目な映画が輸出されるのを見過ごすことはできない…という責任感もしくは義憤でしょうか。

 

『日本の四季』は、観光局が映画による文化宣伝に力を入れ始めた頃の作品です。タイトル通り内容は四季のパートで分けられており、全部で45分程度の長さ。文化宣伝映画はだいたい10分から30分程度の長さが多いので、長尺といえます。

夏のパートは、海水浴や登山を楽しむ行楽客の姿や田植えをする農民などが映し出され、上高地や隅田川花火大会なども紹介されます。秋のパートは、菊の品評会に陸上競技会、ラジオ体操、富士山、ゴルフ、コメの収穫作業など。冬は、雪国の風景、皇居、明治神宮、日本のお正月、浅草、相撲、スキーなど。

 

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『日本の四季』より。(たぶん)上高地。

 

私が映画の内容を知っているのは、以前、東京国立近代美術館フィルムセンター(現・国立映画アーカイブ)でこの映画を観たことがあるからです。しかし当時のノートを見ると、〈春〉のパートの記述がないので、完全版ではないようです。しかし完全でなくともフィルムが現存しているのは嬉しいですね。

 

戦前に作られた日本映画にも名作と呼ばれるものはたくさんありますが、この『日本の四季』のような官公庁が対外宣伝のために製作した文化映画は、そもそも娯楽を目的として作っていないうえ、いわゆる名監督がいないジャンルです。したがって現在から観て、“文化資料”、“歴史資料”的な面白さはありますが、映画そのものとしての面白さは正直あんまりなかったりします。

特に、製作された当時の日本映画全体のレベルや、映画に対する日本社会の文化・教養レベルがわからないと、その映画が当時としてはどの程度のレベルの出来なのかも判断できません。

その点、こうした同時代の文化人や批評家の評論などが残っていれば、そのあたりの判断の助けになります。

 

また、当時の文化人たちが「日本を宣伝する」ことについて、どのような考えを持っていたのかを知ることもできます。「日本らしさ」あるいは「日本的なもの」とは何なのか?

そこで、今回は、『光画』に掲載されたコメントをかいつまんで紹介したいと思います。

 

まずトップバッターは伊奈信男。他の同人よりも多くの誌面を割いて批判しています。

先ず第一に製作者に問ひたいのは、一体真の日本及び日本人を紹介するのが目的なのか、或は真実ならざるものを紹介するのが目的なのかと言ふことである。

なかなかキツイですね。

伊奈の言う「真実ならざるもの」とは何のことなのでしょうか?

この映画によって表現された日本及び日本人は、決してその真実の姿ではない。(中略)二三の生産的場面を除いては、他はすべて飲食娯楽享楽の場面である。吾々は決してこのやうな生活をしてゐるのではない。

 

この映画に描かれている日本人の生活環境はきわめて裕福な階層のものです。都市の中産~富裕階級の人々が基準になっています。それは日本の現実からは大きくかけ離れているので、そのような意味で言っているのならその気持ちも分かりますが、どうやら伊奈が言っているのはそういう点ではないようなのです。

 

この映画に於ては日本人の私的生活の場面のみ徒に多く、公的生活の場面の殆どない事を挙げることが出来る。(中略)また日本には外国の場合のやうに全国民的な宗教的祝祭はないかもしれない。しかし地方的な神社仏閣の祭典等は数多くある。(中略)これらを背景として、日本人の生活と日本の風景風物が織り込まれてゐないといふことは、真実の姿の歪曲化であり、この映画の最大の欠陥の一つである。

 

伊奈は、このあとに「貧弱なるスキーの場面などに貴重なるカットを数多く浪費する」ことを止めて、「日本的な感情を表現するに適合した数多くの新しい場面を挿入する」ことを勧めています。彼の要求は、もっと日本独特の風物や文化的行事の場面を入れることでした。ここで言う「スキーの場面」とは一例で、つまり日本でも欧米でもさして変わりのない文化を入れるくらいなら、“日本的なもの”をたくさん入れろ、という要求なのです。

これについては、観光局側の製作意図を私が代弁(?)しておくと、この手の観光映画の目的の一つは、欧米人に日本旅行の快適さを伝えることでもあります。あまりにも日本独特の風習など異文化を強調すればかえって敬遠される可能性もあり、欧米人がリゾートを楽しめる適度に欧風化した環境を提供できることもアピールする必要があるのです。

 日本的なものをたくさん映画に盛りこむことは、実はけっこう諸刃の刃でもあります。

 

木村伊兵衛と野島康三は、写真家らしくもっぱら撮影のアングルや露出、ライティング、対象の選び方といった点について激しくダメ出しをしています。

木村が、「例えば風景なら、前景に木とかすゝきとかを置いて撮すといふやうに、古い芸術写真の構図を常套手段にしてゐる」と批判するなら、一方の野島も、「汽船とか汽車に限って、特に新興写真のやうな撮り方をするのも全体の調和を破って見苦しい」と批判しています。彼らがもし映画の撮影をすることがあったなら、どんな映像を撮影したのか、見てみたかった気がします。

 

原弘も「殆ど駄目である」と身もふたもなく言い切っています。しかし、映画タイトルの字幕の書体に注目し、「大さの点は、もっと考ふべき余地がある。もっと短いタイトルが必要である」等と述べているところが、いかにもタイポグラフィ研究の第一人者だった原らしい。ここで言っているタイトルは英語タイトルのJapan in Four Seasonsのことですね。

 

山内光のコメントは、短いながらも示唆に富んでいます。

この映画はあまりに不用意に製作されてゐる。極めて低度の日本の常識によって見られた日本であって、外国人の眼を以て視、外国人に対する効果を強調するといふことを理解してゐない。要するにそれは製作者が、真の日本人の生活を知らない所に由来してゐる。

 

松竹蒲田の映画俳優だった山内光は、本名・岡田桑三 といい、1920年代にベルリンに留学し、村山知義と交流し、ドイツの前衛美術や写真・映画について吸収してきた人物です。また戦時中は対外文化宣伝にたずさわったり、戦後、数多くの科学映画を製作しプロデュサーとして名を馳せました。ちなみに岡田桑三については、川崎賢子・原田健一『岡田桑三 映像の世紀』(平凡社、2002年)という大著があります。

謎めいたところのある人物ですが、なんと4分の1、英国人の血を受けていたそうです(確かにちょっと彫りの深い顔立ちをしています)。

 

で、こういうプロフィールの人物が、「極めて低度の日本の常識によって見られた日本であって、外国人の眼を以て視、外国人に対する効果を強調するといふことを理解してゐない」なんて言っていると、妙に説得力があります。

 

いちおう言っておくと、『日本の四季』にも相撲とか“エキゾチック・ジャパン”を強調するような映像はいくつか挿入されているのですが、山内(岡田)が求めているのはそういうものではないようです。

 

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『日本の四季』より。このころは土俵の四隅には柱があったんですね。

 

今回紹介した『光画』同人による上記の批判を踏まえたうえで、次回は、画家の藤田嗣治が監督し、当時、批評家や関係者からなぜか“フルボッコ状態”になってしまった『現代日本』という問題作について紹介したいと思います。

 

南方留学生と観光宣伝映画:国際観光局製作『雪に集ふ』(1942年)が宣伝したいコト(其の1) - Nipponの表象

 

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